[読了]ニック・レーン 生命、エネルギー・進化
何かの書評で発売されたことを知り、少し遠い大きめの書店まで足を延ばして買いに行った。手に取ってみると意外と軽い。紙の質が違うのだろうか。もちろん内容には影響しないし、字が見づらいこともないのだけど、なんとなく不満。この紙の質感が好きではないのかもしれない。それはさておき、内容に触れていこう。まずは、進化の過程でブラックボックスがあるという話。真核生物は脂質二重膜があり、核が膜で仕切られ、リボソームでタンパクを合成し、ミトコンドリアがエネルギーを供給する。この仕組みが共通であることから、進化の大本になる細胞(になったもの)は一つであるかもしれない。ただ、それをたどってもいつ真核生物が誕生したのかはわからないし、再現することもできない。これはとても面白い話で、言われてみると、原初の地球の環境を模してアミノ酸ができたとか核酸ができたとかのニュースは聞くけれど、そこから細胞に至るまでの道筋を解説したものに出会ったことがない。この本を読んでいて思ったのは、自分にはある程度理にかなったことならあまり考えずに受け入れる傾向があるな、ということ。もう一歩踏み込んで考えると、前提条件があいまいであることも多い。ある仮説を聞いたとき、それ以外の可能性について、他の可能性があり得るのか、あるとしたらどんな可能性があるか考えるのは面白い。ただし、なんでもかんでも疑ってかかると疲れそうではある。
我々は炭素を主体とした化合物で構成されているのだけど、SFでは時折珪素を主体とした生命が登場する。周期表で言えば炭素の下に来るので、同じような電子の配置になりやすいと考えるからだ。構造が今現在の生き物に準じているのが不思議だけど、考えるけど動かない珪素系化合物(見た目は動かない石だ。カーズみたいなものか)では面白くないし(考えを伝達できれば面白いかもしれない)、メカニカルなな動きをする生命体では、意志を持った機械との差がわからないので、結局炭素系の生き物を参考に同じ仕組みで優劣を考えて、という形に落ち着くのだろう。珪素系生命体は、神経の伝導速度が光速に近くなるとか、皮膚にあたる部分が硬いとか、大きい体になれる(ゴーレムのイメージかな)という設定を見かけるけど、改めて考えると、どうやって動いているのか(筋肉にあたる部分はなんなのか)とか、光を透過するかもしれないけど受ける部分はあるのかなど、疑問は次々に出てくる。完全に物理法則が異なる世界は考えにくいし、創り出すとしても進化の過程を考え、どのような生き物になり、大きさは、環境は、と考えることが多すぎる。考えたとしても、描くことが多すぎて、読む側の負担が大きい。複雑に考えすぎて動けなくなるよりは、よくわからないが不思議要素により魔法が使える、とか、前提条件として考える方が読む方としてもありがたい。ただ、この本を読んでしまっては、生半可なSFを見てしまうと不満が出てくるかもしれない。ちょっと知識を得ると突っ込みたくなるのは格好いいことではないとわかってはいるものの、知ったかぶりは楽しい。誰に知ったかぶるわけではないけれど。初めは一つ一つ理解しながら読もうと思っていたけれど、あまりにも遅々として進まないので、まずは一通り目を通すことにした。今、ようやく一回目を読み終わったところ。この時点で思うのは、結局炭素ではなくほかの元素を主体とした生命体はあり得ないだろう、ということ。はっきりとそう書いてあったかどうかは定かではないけど、水素からの電子のやり取りから生まれる一連の過程を見ると、化合物の安定性から、珪素生命体が生まれるのは難しそうだ。ただ、そこからどのような形で進化するかは、まだ想像の余地があるようだ。しかし、結局のところあまり理解できていないのだけど、例えば恒星との距離や地殻の構成など、地球に近い環境であれば、同じような生物が生まれてもおかしくない、というか基本的にはこの形になるのだろうか。ガスで構成されているような星でも、生命が生まれるとは考えづらい。環境が氷点下であるとか、高熱下であるとかならどうだろうか。もともと冷たいとエネルギーの授受が難しそうだ。かといって、いつまでも熱い環境だと、その熱さに耐えられる膜ができるかどうかがポイントかもしれない。現在、2016年12月末だけど、おそらく内容の半分も理解できていないだろう。何回かは読むつもりなので、そのあとの感想も追加していく。
さて、2回目を読み終えた。本当に少しずつだったので、前に進んでは戻っての繰り返しだ。電子の移動など、ある程度そうだろうと思いつつ流していた部分を少し真面目に読んだ。理解は進んだと思うけど、ひとに説明できるかといわれるとまだ難しい。一つ一つの事象は説明できるかもしれないけど、全体像が理解しきれていない。教科書以外で何度も読み返すのは久しぶりだ。かなり手ごわいけど、なかなか面白い。とりあえず、今回の感想はここまでの感想としよう。次の本が出るまでにはもう少し時間がかかるだろう。前作を読み返すのもいいかもしれない。
最後に、内容に対する理解の浅さを露呈することになるかもしれないけど、疑問に思うことを挙げて終わりにしよう。まずは、共生に成功したのは何個の細胞なのか、ということだ。偶然共生することになったミトコンドリアが今の細胞の原型となっているようだ。おそらくその環境では、多くの細菌と多くのミトコンドリアがあったであろう。ものすごい確率でも、何個か共生した細胞があったのではないかと想像する。その場合、同じような進化をすると考えてよいのだろうか。共生する、死んでしまう、の繰り返しの中、生き残ったものが原型だ。それは一つなのか、いくつもあるのか。一つだと考えるのは難しい。そこまで優秀なものが一度でできるだろうか。それとも共生、失敗を繰り返す中、ベストなものがいつしかできたのだろうか。要するに、今気になっているのは、本当の先祖にあたる細胞は一つなのか、いくつもあるのかということだ。これがわかる時が来るのだろうか。その時まで生きているのだろうか。気になる。
次に、可能性について疑問が残る。著者は、かなりの道筋をこれしかないような説明で進めている。読む限りでは、破たんはないし、とてももっともらしいのだけど、どこまでが一本道なのだろう。アルカリ熱水孔でプロトンを利用するところまでなのか、呼吸鎖ができるまでなのか、細胞膜ができるところまでなのか、核膜ができるまでなのか。シトクロムCの構造ぐらいは、環境によって異なることもあるかもしれない。細胞膜を構成する化合物も、多少の幅はあるのかもしれない。それは、今存在する生き物と全く異なる生態系の存在を肯定するのだろうか。残念ながら、そこまで想像が至らない。ただ、炭素が生体の主な構成物質となることは避けられないのではないかと、一連の話を読んで感じた。
これは若干記憶が不鮮明なのだけど、確か熱水孔から離れるために、代謝を獲得したようなことが書いてあったとおもう。周りがすべて熱いままだったら、生命は生まれないのだろうか。熱い環境でも多少の温度差はあるだろうから、熱いなりに代謝をする生き物が出てくるのかもしれない。いま熱水孔の周りにいるバクテリアみたいなものだろうか。ときどき、地球と似た環境の星が見つかったとニュースでしているけれど、今の地球の環境に近いというだけで、それだけでは生命が存在するかもしれないと推定するには不十分ではないだろうか。優秀な人たちの集団なので、それぐらい(かつては熱かったけど、今は冷めているなど過程も類似しているなど)は含めているのかな。何億年もかかって試行錯誤されたことを、いくら条件がわかりつつあるからと言って手元で再現することは難しいだろう。
人間は、人間という生き物として最適化されているので、現在のままではどう頑張っても120歳程度までしか生きられないようだ。ファンタジィ小説などで、長寿の種は子供が少ないとの設定が多い。ただ単にバランスを考えて、長寿で子だくさんだとその種に支配されてしまうからそう設定しただけかもしれないけど、この本で説明していたように、繁殖力と寿命の関係がトレードオフならば、あながち間違った想像ではない。ドワーフのように体躯が小さい種族は子供が多いという話はあったかなかったか覚えていないけど、寿命は短めであったとおもう。周りの動物から観察される特徴を反映しているのかもしれないけど、まあまあ妥当な設定となっているのが面白い。
最近、科学系(ずいぶんざっくりだけど)の本を読むことが多い。一度では理解できないことも、別の本で補ったり、繰り返して読むことで少しずつ理解できていくのは楽しい。もっと頭が回っていたころにこの楽しさを知っていたら、多少は今よりも賢くなっていたかもしれない。まあ、最適ではないけど手遅れでもないと信じて、これからも少しずついろんなことを知りたい。

 

生命、エネルギー、進化

生命、エネルギー、進化

 

 

[読了]CRISPR(クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見

CRISPR-CAS9については、発表の少しあとからノーベル賞候補との話題が出ていたので多少知っていたものの、現状どこまで進んでいるのかはあまり知らなかった。本作は、CRISPR-CAS9技術を開発したエマニュエル・シャルパンティエと、ジェニファー・ダウドナのうち、ダウドナが執筆したもので、発見に至る過程やその後の目覚ましい開発状況、この技術の社会的な立ち位置などについて触れられている。
CRISPR-CAS9はとてもシンプルで強力なツールである上に、コストがかからない点が普及を後押ししているとのことだ。倫理的な問題を議論するのは大切で、ダウドナがそういう姿勢であったことは本当に科学界にとって救いであっただろう。そうはいっても、水面下で活動する人も少なくないだろうし、発表から数年たった今、すでにデザインされた子供が生まれていてもおかしくはない。もし遺伝子操作で何か獲得できるなら、ほしいものはあるだろうか。見た目については、さほど気に入っているわけでもないけれど、ある程度長い年月付き合ってきたので、いまさら変えようとは思わない。記憶力や理解力、発想力がもしも向上するならしてみたいものだけど、それらはきっとバランスが重要であって、総合的に能力をぐんと高める手段は今のところないと思われる。遺伝子操作と言っても、万能ではない(はず)。いろんな部位を一気に変えるのは不確定要素が多すぎる。ただし、そういった倫理観を持たないひとが、能力を高めた(と期待する)子供を作る可能性は否めない。成果(とは言いたくないが)がわかるまでに時間が必要なので、その間に法関連を整えておく必要があるだろう。オフターゲット効果が見られた場合、どの程度個体として影響を受けるのかなど、理解できていない部分も多いので、もう少し学んでみようとおもう。なんとなくのイメージはできていると思うのだけど、他人に説明できるほど理解できているかというと怪しいものなので、もう少し基礎的な部分を学びなおしたい。

と、ここまで書いたのは本が発売されてすぐだった。無事ノーベル賞をとって、その後も活躍しているようだ。応用も進んでいるみたいなので、なにか参考になるものを読むかもしれない。

 

 

[読了]三上修 電柱鳥類学

電線にスズメが止まっているのを見かけることは多い。よく見ると雀ではない鳥も多い気がする。住んでいるところは田舎なので、トビが固まって止まっている区域もある。あまり、多種が固まって止まっているところを見たことはない、などと思っていたら、電柱に止まっている鳥について研究している人がいて、簡単に本を書いてくれた。

電柱の話に始まり、止まっている鳥について簡単に説明がある。ある程度見ていたらわかることを、きちんと調査して書かれていると感じる。もっと踏み込んでもらっても良かった気もする。主となるのは鳥の種類と、巣の話だ。自然に割り込んでいるのは人間のほうかもしれないけれど、鳥は鳥でそれを利用することもあって、なかなかこれも自然の摂理なのかもしれない。著者も述べているけれど、いずれ電柱は失われるものであり、ほんのひととき見られる風景なので、今のうちに楽しむのもいいだろう。

職場もまた自然が多く、毎日鳥の声が聞こえる。夏であろうが、冬であろうが、朝は人が少ないからか、とても多くの種類の声が聞こえる。まあ、聴き分けることはできないので、本当に種類が多いかどうかは不明だ。ところが、少し周りの木が伐採されたので、静かになってしまった。いずれ戻ってくるのだろう、とは思うものの、こんなに静かなのかと驚く。はじめは、あまりに静かなので地震などが起きるのではないかと心配したくらい静かになった。一方、今まで見たことがなかった鳥を見かける様になった。雀かな、と思ったけど、調べてみたらアオジだった。結構近くまで寄ってくるので可愛らしい。1メートルぐらいまで近づいても逃げない。この周辺の鳥は比較的人を警戒しないのか、セキレイも近くまで寄っても逃げない時がある。人なんてスローモーションに見えているのかもしれない。

 

 

[読了] ランドスケープと夏の定理

 

 一つのアイデアを広げて描かれた作品。冬木糸一さんの紹介文を見て買った。あまり一人の意見を大きく受けとって何かを買うことはないのだけど、書評家の感想と自分の感想のずれを認識していれば、こういう感じのおすすめの時に自分好みの作品に出合える、という関係性が分かるかもしれないと期待した。本作に関しては、絶賛されているほどの受け止め方はなかったけど、面白く読めた。イーガンに萌えを足した、とあったけど、ベースの説明はそこまで入り組んだものでもなく、天才という言葉に紛れさせていた印象だ。ただ単にこちらが理解できていないだけかもしれないけれど。容姿を想像させる表現は少なかったような気がするし、萌えというほどの何かは特になかったのでは。もしかして主人公以外……、と思ったけど全然違ったので、きちんと読めた自信はない。ディープラーニングが進み、犯罪が起きる可能性が高い場所や、雨が降る可能性が高い場所が事前に示されるようになってきた。テレビ番組などでは、判断理由は人間に理解できないと言っていることが多いけれど、判断理由を出力するようにすれば、これまで何時に何回この場所で犯罪が起きていたので、この時間に犯罪が起きる可能性が高い、と出てくるはずだ。そんなデータはない、と人が言うこともないだろう。未来予想に関しては、それほど先のことがわからないがゆえに、即時的に判断しなければいけないことが多いので、いちいち理由を聞いて理解している時間がないのが現実だろう。本作では、AIを活用して新たな理論が示された。その確実さにあいまいな点があるものの、今現在でも仕組みを知らなくても使えるものは多く、その理論が正しければ、運用することは可能だ。AIに新たな理論を作らせるのは、なかなか思考実験としては面白い。問題点は、その理論が導かれ、運用されることも組み込まなくてはいけない点だろうか。理論だけなら、現実の運用は度外視してもよいのだろうか。ちょっと興味深かったのは、機能制限されたAIが砕けた話し方になったところ。敬語を話すためには土台として軽い言葉を知っておく必要があるという理屈だろうか。そんなものだろうか。両方把握していれば両方話せるだろうけど、話し方の上位にあるとは考えにくい。人では、主に習慣として敬語を話すか、軽い口調で話すかが分かれるのではないだろうか。文章ではそれなりに丁寧に書いてはいるけれど、実際にはほとんど敬語を話す機会もなく、話し言葉はひどいものだ。誰に口をきいているのだ、と親に殴られていたにもかかわらず、口調が丁寧にならないのは、そういった能力が欠けているからだろうか。それとも、意地でも敬語(丁寧語)を話すものかと反抗心を持ったためだろうか。実際は、ただ単に話さなくなっただけなので特別反抗心は芽生えていないと思うのだけど。つまりは、両方知っていても敬語が話せない人もいるということか。逆も当然考えられる。なので、ここでAIの口調が変わったのは、論理的な理由ではなく、萌えを意識したためかもしれない。比較的近未来なので、近未来SFと言っていいのだと思うけど、近未来のSFにはかなりの現実味が要求される。知識がある人のほうが気になるのか、知識がない人のほうが気になるのかはわからないけれど、中途半端な位置にいると、すぐにそれはないだろう、とか無理がある、とか若干否定的な考えを持ってしまう。もっと一度滅んで再生中の世界とか、かなり未来で、よくわからないけどこんな技術があるとの前提で進めてもらったほうが、物語には入りやすい。著者の本職は、これまではアニメのSF監修などを務めていた人のようだ。文章は読みやすいし、次作も読んでみたい。

[読了] 郡司めぐ キリン解剖記 

 

キリン解剖記 (ナツメ社サイエンス)

キリン解剖記 (ナツメ社サイエンス)

  • 作者:郡司芽久
  • 発売日: 2019/07/08
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 とても面白かった。本の構成上いろいろと省略しているのだろうけど、これは研究の過程が書いてある本だ。テーマを決め、現在わかっていることを調べ、わかっていないことについて一定の説があるか、これまで触れられていないかを調べ、自説を考え、科学的なアプローチを考え、着手する。得られた結果から自説に沿う点、異なる点を見つけだし、整合性のある説を考え出す。技術の進歩はあるものの、解剖は昔からされてきたことであり、ライバルは100年以上まえから、というのがおもしろい。個体数が少ない生き物や、あまり触れられていない生き物については、研究者そのものが少ないので、少し前の人物でも身近に感じられるのもおもしろい。本作で示されていることはすごいことではあるけれど、おおもとの説は昔の人が考えたものであり、改めて証明はしたものの、少し物足りなく感じているのではないか、とも思った。小動物であれば、いっそのこと全体を固定してしまい、スライスして観察し、再構成しまうことも可能だろうけど、大動物では運搬の都合上、分離することで失われる情報もあるようだ。巨大生物解剖図鑑では、キリンの反回神経について触れられていた。片づけてしまったので今は読めないけど、新たに神経を作り出してつなぐよりも、元の神経を利用したほうが手っ取り早い、と書いてあった気がする。キリンは、頸椎を増やすよりも一つ一つを大きくしたり、胸椎を応用したりしたほうが手っ取り早かったのだろう。しかし、椎体の形はどれもそこそこ形が似ているのだから、増やさないまでも一つ位置をずらすほうが簡単にも思える。同じ種でも椎体の数が異なるものもいるようだし、頸椎と胸椎の境目を決める遺伝子は、結構自由度が高いのではないか。となると、何かほかの理由で哺乳類の頸椎の数が縛られている可能性が考えられる。椎体の数で規定されることはなんだろう。増えても困る、減っても困る、つながっても困らない。可動範囲は、問題にはならない。情報処理的な問題か。中枢と末梢を分ける必要があるから?鳥類だってわかれている。うーん。なんにせよ物理的な理由だ。まあ、にわかに考えても思いつくものでもない。生きている間に何か指し示されるだろうか。楽しみだ。そこそこ機会が多いのならば、キリンの解剖に立ち会ってみたい(可能なら自分でも手伝ってみたい)ものだ。もう少し頭が良かったら、こういう人生もあったかもしれない(悪いからないのだけど)と妄想するのも少し楽しい。

[読了] 嘘の木 フランシス・ハーディング

 

嘘の木

嘘の木

 

 

なんとなく紹介される本をたどっていって、たまにはジュブナイルを読んでみようと思ったので購入。最近本屋さんをめぐることも少なくなってしまったので、何か別のパターンで本を見つける方法を試しているところ。でも、実際には好みの傾向をたどっているだけかもしれない。

嘘の木のシステムとして、木に認証される必要がある点が不可解であり、面白い。そこいらじゅうの嘘を拾ってしまってはどうしようもないし、その周囲にある真実もかすんでしまうだろう。過剰に残酷な場面があるでもなし、ジュブナイルとしては良いのではないかと思う。ただし、フィクションでの残酷さに慣れてしまっている可能性は否めない。

幼いころ、よく嘘をつく友人がいた。知り合った当初は騙されていたけれど、いくつか話を聞くと、本当の話が少ないことに気が付く。嘘が多いというよりも、誇張しているのだ。話が面白いので、聞くだけならまあいいかと思っていたのだけど、こちらが軽い失敗話をしたらかなり拡張されて広まっているのに驚いた。なるほど、これがデマが広まる仕組みなのかと幼いながらに思ったもので、次第にこちらの話をしなくなり、向こうの話を他者にすることもなくなり、関係は薄れていった。子供のころの話ではあるけれど、大人になった今でもこういう人は存在する。さすがに程度がましにはなっていて、たまに半額シールが貼られた総菜を買っていたら、半額になるのを待って買い占めていると言いふらされたりするぐらいだ。興味深い点は、実際にあった人は言いふらした人ではない点だ。つまり、話を盛ったのは、買い物をしているときにあった人である可能性もある。ただ、言いふらす人はいつも同じなのでその可能性は低いような気がする。彼らは、特に害はないけれど、内心での信用度が下がっているので、その人に対して話す内容を選択するようになる。どちらがメインなのかはわからないけれど、ほかの件もあるので、どちらも警戒して損はない。話を誇張したり、誇張して広めてしまう人は、どういう思いなのだろう。面白ければいい、と考えているのか、話を誇張しないと聞いてもらえないと思っているのか。あまり話さなくても平気なほうなので、そういう人からは距離を置く。すると偏屈ものとして話が広まったりすることもあるけれど、しばらくしたらそう言ったうわさはなくなる。特に偏屈ものとしての活動はしていないからだとおもう。

ツイッター(だけではないが)が広まったことで、簡単に嘘をついてそれを広めることができるようになった。新しいアカウントを作って、デマがばれたら削除できる。都合のいい情報をまとめて、世間の意向だと示すこともできる。こういったツールができると、しばらくは騙される人もおおいし、実際にうのみにしそうになったこともある。今では、作者が自分の宣伝をするとか以外は原則信用しない。災害時のツールだともてはやされている一面もあるけれど、現実的には、緊急時に個人アカウントのツイッターを情報源とするのは危険だと思う。ここぞとばかりにデマを広げる人がいるだろうし、そのための準備をしていてもおかしくないからだ。公的アカウントを信じればいい、と考えてしまうけど、それっぽい名前を作るかもしれないので注意は必要だ。過去のツイートをたどればある程度本物かどうかはわかるかもしれないけど、緊急時にそれをする余裕がある自信はない。だから、よほど藁にも縋りたい状態でなければ、個人でも発信できるツールについては信用しない。SNSを活用している人は、普段の交流の中で信用できる人を見つけているのかもしれないし、すべての個人の発信を否定はしない。wwwができたばかりのころは、発信できる人がある程度限られていたため、それらの情報の信頼性も高かった。大勢が発信するようになり、ほとんど役に立たない情報が多くなって、信頼できる人を探す必要が出てきた。若者たちは、YouTuberなどを信用しているのかもしれない。自分で考えて、信用できる人を選べばいいかもしれないけど、信用できる人が信用する人は、必ずしも信用できるとは限らない。とにかくうのみにしないことが大切だと思う。これから先、終戦のころにあったような大きな嘘は現れるだろうか。

少し前までは、プログラム上の小さな嘘で大きくだます、ぐらいならできるだろうと思っていた。具体的には、入金先を変えるとか、競合からこっそり外すとか。扱う額が大きいと、その程度の作業でも大きくだますことができる。ただ、だれだれの子孫とか隠し子というのは、科学技術の進展もあって、押し通すのは難しくなったようにおもう。個人のことは隠せるかもしれないけど、規模が大きくなり、公共性が増した場合、多くを隠すことは難しくなるはずだ。この先AIを生かす技術が発展したら、誤認識を利用した嘘は通じにくくなり、ルール上の盲点を突く嘘が出てくるだろう。それもいずれは淘汰されると予想される。ということで、将来については、大きな嘘はなくなり、対面での小さな嘘(嘘と書いているけれど、つまりは詐欺)が増えると思われる。

 

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版

 

[読了]死とは何か

なんとなく生きていると明日死んでいるとは考えにくいものではあるけれど、いずれ人は死んでしまう。病気ですぐに死ぬことも可能性としてはあるけれど、事故で死ぬ可能性も十分考えられる。年齢を重ねるにつれて、明日死んでいてもおかしくはない、と思うようになってきたので、そろそろ死について真面目に考えてもいいだろう。本作は死ぬことについて、いろいろ考えるきっかけになる本だ。

日本向けの版では、ある部分がごっそりと削られており、当然ながら、著者はそのことを知っている。日本人には理解しにくいのかもしれないけれど、そこが重要なのでは、という気もする。これを書いたのは、実は発売された1か月後ぐらいなのだけど、今では完全版が売られている。きっと、完全版を読みたいという希望が多かったのだろう。

死生観は、最終的には世界共通なのだろうか。信仰する宗教は仏教としても、お葬式など、死を受け入れるときに本格的に向かい合うくらいで、日常的に神を感じているかといわれると、答えは否だ。

いくつかの考え方を想定して、そのパターンに対する反論はこうだ、と書いていく形式なので、じっくり考えるとほかの考え方も出てきそうな気もするけれど、読み進めていくとそれ以上の考えはないような気になってくる。比較的ゆっくりと読んだので、考える余裕はあったと思うけど、特に反論はない。グラフが単純化されすぎているぐらいかな。例えば、死ぬ間際にほんのわずかにプラスになるからと言って、それまでの長い長い期間苦しむことを是とするだろうか。グラフを見れば、最後がいいなら我慢できそうにも思えるけれど、実際には死ぬ間際にわずかに満足できれば良いほうなのではないかと思う。

すごくよかったことも悪かったこともなかった人生ではあるけれど、当然小さいなりに起伏はあった。よかった時期は短い。それでもまあ、短い良かった時期のために生きていてよかったと現時点では考えることができる。この先、長さだけで考えるとほとんどいいことはないだろう。ただ、よくはないけれどつらくもない、という状態はさほど苦ではないので、この状態が続いたとしても生きていくだろう。

それほど遠くない未来、怪我か病気で体を思うように動かせないようになったとき、それでも生きていたいと思うだろうか。症状の重さにもよるかもしれないけれど、きっとあまり長く生きたいとは考えないだろう。未来に期待することがないからだ。例えば、子供の成長を見たい、という気持ちは未来への期待に入ると思う。でも、親戚程度のつながりであれば、さほど成長を見届けたいとは思わない(生きていれば見たいと思うとしても)。また、自分が生きている間の医療技術では、劇的に回復することは期待できない。この本を読んで一番良かったのは、病気になってから考えることが自分にとって本当に正しいことなのか、という疑問が提示されていた点だ。苦痛に耐えながら考えていることはきっと、苦痛の影響が大きすぎる。元気な時はきっぱりと延命治療を拒んでいた人が、今際の際になって死にたくないと言ってしまう気持ちは理解できる。生き物はきっと、生きていたいからだ。つらい状況になった時の自分がこの意見を受け入れるかどうかはわからないけれど、意思が表明できなくなった時点で安楽死してもらってよいと思う。このことは、エンディングノートに書くつもりだ。

エンディングノートを買って、記入し始めているのはいいものの、家族もいない、遺産もない、知人、友人も少ない、となると書くことがあまりない。口座を作った金融機関は、本気で調べるところに依頼したらほとんど抜けなく見つけてくるだろう。一応書いたけれど。あとは、脳死の場合の取り扱いと、死後の取り扱いぐらいだろうか。葬式代は別にとってあるとか、書いておけばそのようにしてくれるのだろうか、と疑問は残りつつ、死んでしまえば何もできないので、お金がかかりそうな部分について、妥当だと思える金額の三割増しぐらいで残せたらいいかな、と思う。残したものは、すべて処分してもらって問題ないし、残していても大した価値はない。キンドル端末にダウンロードした本ぐらいだろうか。それも、読む権利のようなので、受け継いだ人が読むのはもしかしたら妥当ではないのかもしれない。それもまた、残された人の問題であって、死ぬ側としては処分してもらって構わない。着地点としては、キンドルはリセットし、改めて自分で(読む権利を)購入した本を入れていくくらいだろうか。エンディングノートの罪なところは、何もなしていない、何も残さない自分の姿を見返す必要がある点だな、と少し思った。まあ、生きていて税金を納めているだけで多少の役には立ったはずだし、そこそこ献血もした。この程度の貢献でも、いないよりはましだったかもしれない、とだれに向けているのかわからない言い訳を書いておく。

 

 初めにも書いたけれど、本作は比較的早くに購入して、感想も書いていた。その後しばらくして、透析患者が初めは自分の意志で透析を中止したものの、症状が悪化した段階で、透析を再開してほしいと願ったが、数日後に亡くなったという報道があった。本作に書いてあるように、健康であった時の判断のほうが妥当であったとは思うけれど、いざ死ぬとなると、やはり少しでも長らえたいと思う気持ちも理解できる。自分ではどうだろうか。苦痛が緩和されるのなら、そのまま治療はしないことを望むだろう。詳しい情報はわからないものの、今回の場合は、ぎりぎりまで自宅にいたためなのか、十分な緩和医療がなされていなかったように見える。たとえば、自分が末期で苦痛が出てきたからと言って、このまま死ぬ覚悟をしていたにもかかわらず、見かねたパートナが治療を望み、その結果長く苦しんだとしてパートナを恨みながら亡くなることもきっとあるだろう。そのとき、ただ苦しむ期間を長くする結果になったパートナは耐えられるだろうか。もちろん、一律で考える必要はなく、パートナごとに関係は異なるだろうし、よく考えて決めれば良い。独り身としては、医療側の判断でこちらの判断を変えてほしくない。おそらくは早めに入院するだろうから、そのまま死ぬことを望みたい。