[読了]死とは何か
なんとなく生きていると明日死んでいるとは考えにくいものではあるけれど、いずれ人は死んでしまう。病気ですぐに死ぬことも可能性としてはあるけれど、事故で死ぬ可能性も十分考えられる。年齢を重ねるにつれて、明日死んでいてもおかしくはない、と思うようになってきたので、そろそろ死について真面目に考えてもいいだろう。本作は死ぬことについて、いろいろ考えるきっかけになる本だ。
日本向けの版では、ある部分がごっそりと削られており、当然ながら、著者はそのことを知っている。日本人には理解しにくいのかもしれないけれど、そこが重要なのでは、という気もする。これを書いたのは、実は発売された1か月後ぐらいなのだけど、今では完全版が売られている。きっと、完全版を読みたいという希望が多かったのだろう。
死生観は、最終的には世界共通なのだろうか。信仰する宗教は仏教としても、お葬式など、死を受け入れるときに本格的に向かい合うくらいで、日常的に神を感じているかといわれると、答えは否だ。
いくつかの考え方を想定して、そのパターンに対する反論はこうだ、と書いていく形式なので、じっくり考えるとほかの考え方も出てきそうな気もするけれど、読み進めていくとそれ以上の考えはないような気になってくる。比較的ゆっくりと読んだので、考える余裕はあったと思うけど、特に反論はない。グラフが単純化されすぎているぐらいかな。例えば、死ぬ間際にほんのわずかにプラスになるからと言って、それまでの長い長い期間苦しむことを是とするだろうか。グラフを見れば、最後がいいなら我慢できそうにも思えるけれど、実際には死ぬ間際にわずかに満足できれば良いほうなのではないかと思う。
すごくよかったことも悪かったこともなかった人生ではあるけれど、当然小さいなりに起伏はあった。よかった時期は短い。それでもまあ、短い良かった時期のために生きていてよかったと現時点では考えることができる。この先、長さだけで考えるとほとんどいいことはないだろう。ただ、よくはないけれどつらくもない、という状態はさほど苦ではないので、この状態が続いたとしても生きていくだろう。
それほど遠くない未来、怪我か病気で体を思うように動かせないようになったとき、それでも生きていたいと思うだろうか。症状の重さにもよるかもしれないけれど、きっとあまり長く生きたいとは考えないだろう。未来に期待することがないからだ。例えば、子供の成長を見たい、という気持ちは未来への期待に入ると思う。でも、親戚程度のつながりであれば、さほど成長を見届けたいとは思わない(生きていれば見たいと思うとしても)。また、自分が生きている間の医療技術では、劇的に回復することは期待できない。この本を読んで一番良かったのは、病気になってから考えることが自分にとって本当に正しいことなのか、という疑問が提示されていた点だ。苦痛に耐えながら考えていることはきっと、苦痛の影響が大きすぎる。元気な時はきっぱりと延命治療を拒んでいた人が、今際の際になって死にたくないと言ってしまう気持ちは理解できる。生き物はきっと、生きていたいからだ。つらい状況になった時の自分がこの意見を受け入れるかどうかはわからないけれど、意思が表明できなくなった時点で安楽死してもらってよいと思う。このことは、エンディングノートに書くつもりだ。
エンディングノートを買って、記入し始めているのはいいものの、家族もいない、遺産もない、知人、友人も少ない、となると書くことがあまりない。口座を作った金融機関は、本気で調べるところに依頼したらほとんど抜けなく見つけてくるだろう。一応書いたけれど。あとは、脳死の場合の取り扱いと、死後の取り扱いぐらいだろうか。葬式代は別にとってあるとか、書いておけばそのようにしてくれるのだろうか、と疑問は残りつつ、死んでしまえば何もできないので、お金がかかりそうな部分について、妥当だと思える金額の三割増しぐらいで残せたらいいかな、と思う。残したものは、すべて処分してもらって問題ないし、残していても大した価値はない。キンドル端末にダウンロードした本ぐらいだろうか。それも、読む権利のようなので、受け継いだ人が読むのはもしかしたら妥当ではないのかもしれない。それもまた、残された人の問題であって、死ぬ側としては処分してもらって構わない。着地点としては、キンドルはリセットし、改めて自分で(読む権利を)購入した本を入れていくくらいだろうか。エンディングノートの罪なところは、何もなしていない、何も残さない自分の姿を見返す必要がある点だな、と少し思った。まあ、生きていて税金を納めているだけで多少の役には立ったはずだし、そこそこ献血もした。この程度の貢献でも、いないよりはましだったかもしれない、とだれに向けているのかわからない言い訳を書いておく。
初めにも書いたけれど、本作は比較的早くに購入して、感想も書いていた。その後しばらくして、透析患者が初めは自分の意志で透析を中止したものの、症状が悪化した段階で、透析を再開してほしいと願ったが、数日後に亡くなったという報道があった。本作に書いてあるように、健康であった時の判断のほうが妥当であったとは思うけれど、いざ死ぬとなると、やはり少しでも長らえたいと思う気持ちも理解できる。自分ではどうだろうか。苦痛が緩和されるのなら、そのまま治療はしないことを望むだろう。詳しい情報はわからないものの、今回の場合は、ぎりぎりまで自宅にいたためなのか、十分な緩和医療がなされていなかったように見える。たとえば、自分が末期で苦痛が出てきたからと言って、このまま死ぬ覚悟をしていたにもかかわらず、見かねたパートナが治療を望み、その結果長く苦しんだとしてパートナを恨みながら亡くなることもきっとあるだろう。そのとき、ただ苦しむ期間を長くする結果になったパートナは耐えられるだろうか。もちろん、一律で考える必要はなく、パートナごとに関係は異なるだろうし、よく考えて決めれば良い。独り身としては、医療側の判断でこちらの判断を変えてほしくない。おそらくは早めに入院するだろうから、そのまま死ぬことを望みたい。