藤野恵美 初恋料理教室

([ふ]5-1)初恋料理教室 (ポプラ文庫)

([ふ]5-1)初恋料理教室 (ポプラ文庫)

料理教室をきっかけに知り合った人々が、それぞれの世界を少しずつ広げる話。料理はするといえばするのだけど、基本的に煮る、焼くぐらいしかしない。だしもだしパックでしかとらないし、極力調味料は増やしたくない(と言いつつ買ってしまうので数回しか使っていない調味料がたくさんある)。おいしいものを食べたいという欲求が少ないからなのだろう。料理のために時間を割く気になれないのだ。朝は食べない、お弁当はつくらないので晩しか作る機会はない。何を作るかといえば、前の日に肉と野菜を切ってシャトルシェフに入れ、ひと煮立ちして翌日味付けしたスープか、あるものを焼く(焼きそばやチャーハンなど)、パック野菜をいためてうどんやラーメンに入れる、ぐらいか。あまりおいしくないけど、誰かと食べるわけでもなく、栄養重視で食事を済ます。誰かが作ってくれたものならもちろん味わって食べるけれど、こんなに考えて作っているのに、とか、作っている側が苦痛に感じるのなら作らなくてもいいと考えてしまう。ただ飯でも、いいものを食わせてやっているのだ、という意図が感じられることが多くていやだ。とまあ、食にこだわりがないことから書いているけれど、おいしそうなものを見たり、小説で読んだりすることは好きだ。読む分には金銭や労働など、自分や他人の負担がないからだろう。
それなりに長く生きていると、生活していく中で「当たり前」と感じることは、それぞれの経験によりだいぶ違う。生活水準の違いも大きい。人それぞれ当たり前だと思うことや大切なことが違う、と若いうちから理解する人(年を取ってもわからない人もそれなりに多いけど)は豊かな暮らしをしてきた人ではないかとおもう。登場人物の一人は、多くの人が当たり前に享受してきたことを受けられなかったため、知らないことが多い。彼らはそのことを少し恥ずかしがるのだけど、足りないものをがあることを自覚し、素直に質問もできるのですばらしいとおもう。そして、多少皮肉っぽさはあるものの、嘘を教えない、親切に答える周囲の人たちもまたすばらしい。立場が異なるとか、直接の利害関係がないと、人は優しくなれるのかもしれない。今まで習い事の経験はほとんどなく、親戚づきあいもあまりないので、学生時代はほとんど同世代との交流しかなかった。社会人となり、仕事でのかかわりはあるものの、友人といってもいいのか疑問だ。文章として書いてしまうとさみしいようにも思えるけど、あまりさみしくはない。料理は、基礎ができれば楽しくなるかもしれないと感じているものの一つで、なにかの拍子に少し真面目に、と始めるのだけど、半年ぐらいで飽きてしまう。レパートリィが増えないし、手間と味が今一つ比例しないからだ。料理教室というのは、基礎を学ぶ点でいいかもしれない。YouTubeに調理の動画はあるだろう。レシピはそこかしこにある。でも、それを見てすんなりできるようになるためには基礎が必要で、実際の手際を見なくてもできる人はいるのだろうけど、できない側の人間なので、基礎を学べるものなら学びたい。しかし、真剣に調べたわけではないけれど、習い事が豊富なのは都会で、田舎にはあまり習い事をする場がない。どこか伝手が必要なのかもしれない。それほどまでに求めているか、と自問すると、そうでもない。何をするにしても、強い動機が近年失われているのを感じる。自分がしたいことは何なのか、と考えても、のんびりと本を読んで過ごせたらいい、ぐらいの欲望しかない。正直、これはもうかなっているし、もしこの先収入が激減したとしても、青空文庫でも(タブレットがあるので)時間は過ごせそうな気がする。話がそれた。おいしいものを強くは求めないけど、おいしいものを食べたら少し幸せな気分になる。できれば、気が置けないひとと食べたい。
世の中、意外とつながろうと思えばつながれるのかもしれない。つながりを美化した話は、嫌いではないけど、読後に自分のことを考えると少し滅入る。気が滅入るのになぜ嫌いではないのだろうと考えると、読んでいる間は自分のことをさておいて、少し幸せな気分になるからだろう。読んでいなくても、一人の自分を考えると滅入るのだから、読んでいる間にいい気分になれる作品が好きなのかもしれない。読んでいて、誰かほかの作家と似ているなと感じていたのだけど、それはまだ思い出せない。気に入ったので著者の他の作品も探して読もう、という感じではないけど、おもしろかった。