柳実 冬貴 量産型は伊達じゃない

量産型はダテじゃない! (富士見ファンタジア文庫)
ファンタジア文庫佳作。元気があって良いのは良いのですが「量産型は伊達じゃない」というせりふが何度も出てくるのがちょっと気になりました。特にそうでないといけないと思っているわけではないのですが、タイトルになるような文章はここぞというときに出したほうが良いのではないでしょうか。何度も何度も、そこで使うところかなあと思う場面で使われると言葉の価値というか重みが磨り減っているような感じでもったいない。
主人公は天才科学者(技術者)のヘキサ。全体的にもうちょっと名前を考慮してつけたほうが良いような気がしますが、それはともかく、とりあえず著者の世界観はあるみたいでした。技術のどの部分が困難な部分で、どの部分が実装できるのかをあまり考えていないようなところがちらほらみられるので、近未来と言うよりはファンタジィです。ちょっとこの作品だけで好みかどうか判断することは難しそうなので、次回作を読んでから決めたいと思います。

goo辞書によれば

だて 【〈伊達〉】
(名・形動)[文]ナリ
〔「人目につく」の意の「立つ」からかという〕
(1)侠気(おとこぎ)を見せること。また、そのために意気込むこと。また、そのさま。
「おとこ―」
(2)人目にふれるような派手な行動をすること。また、派手なふるまいなどで外見を飾ること。
「―や粋狂でいっているのではない」
(3)好みが粋であるさま。
「さすが茶人の妻、物ずきもよく気も―に/浄瑠璃・鑓の権三(上)」
――の薄着(うすぎ)
厚着をすると不恰好になるので、寒い時にも無理に薄着をすること。

この場合2に当たるのですが、量産型は伊達じゃないということは、量産型であることの利点を示さないといけません。でも、作中で量産型の利点を生かした場面があったかというとあまりそうは思えなかった。量産型の利点とは何かを考えると「個性をなくすこと」だと思います。つまり、何か事故があって部品が損傷したとしても、そのために何かを作ったり、作るための冶具を作る必要がないということ。部品の交感に要するチェックが最低限で事足りるということ。ここで言う個性がないとは、識別ができないことではなくて、例えば今回のように量産されたそれぞれがそれぞれの自我を持っていてもかまわないとは思います。シュナイダーのために作られた右腕は量産型とは真逆を行くもので、活躍するのも、今後の重要な道具であるのもその右腕です。なんとなく、その他大勢でも活躍できるのだと言いたかったのかもしれないのですが、上手くいっていない。また、量産された部品が生かしたのは、唯一無二であるシュナイダーでした。彼もまた主人公だと思っていいのでしょうか。もしその通りで、量産型というのがシュナイダーにも適応可能な部品の事を指すのでしたら納得できます。
上では、次回作に期待と書きましたが、もし次回作がこの続編だったらちょっと考える必要があるかもしれません。内容はともかく、言葉に対する感覚がちょっと違うのかもしれないと感じてしまう作品でした。