稲垣恭子 女学校と女学生

女学校と女学生―教養・たしなみ・モダン文化 (中公新書)

女学校と女学生―教養・たしなみ・モダン文化 (中公新書)

近代になって開設された女学校の歴史と、彼女たちが世間でどう受け止められてきたか、どのような楽しみ方をして来たのかなどが書かれている新書です。
いつの時代も変わり始める先端にいると目立ってしまうのでしょうが、劇的に変わっていく時代だとなおさらかもしれません。明治や大正の女学生は文学好き、と言うか国語が好きだったみたいで、ちょっと先を行く女学生を描いたものも好評だったみたいです。今、携帯小説が学生によく読まれているようですが、内容は援助交際とか、ホストとの恋愛とか、致死性の病気が主らしい。読んでいないので良くわかりませんが。伝聞だけでなので確かではありませんが、これも自分たちの最先端にいる人を想像して呼んでいるのではないでしょうか。実際にそんなことが頻繁にあるとは思えないし、ある種の夢を見ているとも思えます。これらは時代が違って文化が違うので全然違って見えるのですが、実質は同じようなもののように感じます。
当時の女学生は勉強好きも多かったことを知りました。それまで勉強することがあまりできなかったので、少しでも知識を得ることとか、ほとんど交流の無い海外に思いを寄せるのも楽しみだったのでしょう。今は情報が蔓延しているので何かにあこがれることは少ないかもしれません。何かに渇望することがあまりなくなってきた時代ではあります。刺激を求めるのはいつの時代も同じなのでしょうが、それが行き過ぎるとどうなってしまうのかが少し怖い。
お医者さんの書いた文章で、かつては文学少女を夢見ていたのだけど、医者になった今では陳腐な小説なんか楽しめないとありました。実際の人間ドラマを見ているとそんなものに感動することはできない、と。確かに医者はやりがいのある仕事でしょうし、実際に小説を読んでいる暇は無いかもしれません。でも、現実に比べて小説はつまらないとか感動できないと言うのは違う。そのブログでは歴史書説は重みがあるから読めるともありました。その文章から感じたのは、現実に圧迫されてしまって何かを想像する余地がなくなってしまったのだなということ。頭もいいでしょうから実際に書いてある文章から情景を想像することはできるかもしれない。でも、その余白を想像することができなくなってしまっているのでしょう。それが悪いのかと言えば、悪いとは思わないのですが、だからといって小説とか映画の、物語の良さとか力を軽視することは違う。医者は個人の深い部分まで接する仕事かもしれない。やりがいもあるでしょう。なら、他の仕事はどうなのか。自分の仕事に誇りを持つことはいいと思うのですが、そのために他の何かを貶めることは嫌いです。
話がそれました。この本では、「卒業した就職は大変だし、家にいても苦痛だし、家の事情で遠くにもいけない、結婚にも希望が持てない、一日中ぶらぶらできればそれが一番だけど世間体がある、ピアノやお茶を教えて暮らせれば一番だけどそんなものに具体性は無い。なら、今を楽しんで何が悪いのか」と当時の女学生の意見があります。こういう意見は昔からあったのだなと思いました。まあ、それでも引きこもったりする人が今より少なかったのは、そんなことをしている余裕が無かったことと、周囲の圧力が今より強かったからでしょう。
すぐに昔はどうだったとかの意見を口にする人がいますが、昔からあまり変わっていない部分もたくさんあって、環境がそれを許すか許さないかの違いに過ぎないと思います。強制力が働いた時代が良かったと思う人もいるだろうし(無理やりでも何かをすることで道が拓けた人もいると思うからです)、そんなのとんでもないと思う人もいる。女学校や女学生に想像通りの部分もあれば意外な部分もあり、とても面白く読めました。あとがきも、ちょっと面白かった。