ハンニバル・ライジング 上下

ハンニバル・ライジング 上巻 (新潮文庫)ハンニバル・ライジング 下巻 (新潮文庫)
羊たちの沈黙ハンニバルでその怪物振りを見せ付けたハンニバル・レクターの幼少から青年期までを描いた作品です。内容に触れるので以下は隠します。
ハンニバルがどこの出身だったかは微妙なバランスでした。ナチスドイツの影響を受けたのでリトアニア出身となったのでしょう。言葉の問題などはわかりませんが(ハンニバルの発音とか、英語ではないだろうと言うこととか)、当時の悲惨さが描かれています。もしかして前作でも出身地などがほのめかされていた(もしくははっきりと書かれていた)のかもしれませんが、覚えていませんした。
映画もみたのでその感想も交えて書きます。当然のことですが映画ではかなり省略されている部分がありました。たとえばハンニバルは幼少のころから数学に関して才能を見せ始めていたこととか、紫婦人と出会うときには原作ではレクター叔父は存命だったのに亡くなっていたこととか、召使の日本人がいなかったこととか。細かい描写が無いので映画を見ただけではハンニバルがどのようにして怪物になったのかはわかりにくいのではないでしょうか。それでも映画では絵がとても上手いこととか、自分の意思で感覚や脈拍などを制御できることとか、危機に備えていろいろと準備する性格などが描かれており、原作を読んでから映画を見たのですが、もともとのイメージを補完する意味でも十分良い作品だったと思います。
空中キャンプでは

劇中、レクターがいかにおぞましいしかたで人を惨殺しても、その内面(過去のトラウマ)が透けてしまって、「あんなに辛いことがあったんだもの、人ぐらい殺すよね。そして人肉も食するよね」という寛容な気持ちになってしまうのだ。「ハンニバル」以降、実はレクターはいい人なのではないか、けっこう親切なんじゃないか、一緒に飲みにいったら意気投合してしまうのではないか、という疑惑がわたしにはある。内面の見えない者はおそろしい。内面がそもそも存在しない奴はもっとおそろしい。

とありますが、どちらかと言うと逆のイメージでした。ハンニバルは理知的な人間で、能力も並外れて優れています。そんな彼がつらい経験をしたのだから、彼の行為によって人々がどのように感じるかは想像に難くないと思うのです。しかし、彼は残酷な行為を繰り返す。どんな受け止め方をするのか理解しているにもかかわらず、と言うか理解した上で残酷な行為をするレクターに「怪物」ぶりを感じてしまいます。これまでの作品で彼の内面に触れることになって、トラウマを抱えつつ、逡巡しつつ怪物であるならまだ理解できるのですが、ハンニバルはためらわない。人を魅了することも操作することもためらわない。本作でハンニバルのトラウマを描くことが目的だったとはどうしても思えませんでした。ハンニバルは確かに妹のことを思いやっていました。また、妹を失ったことに苦しんでもいました。妹の復讐の過程でハンニバルは自らの趣味嗜好に気がついたのではないでしょうか。「怪物」として描かれていたのでいろいろと後付けのものもあるでしょうが、ハンニバルがトラウマを解消するために残酷な行為を繰り返しているとは感じませんでした。妹を失ったことはハンニバルにとっても衝撃的な事件だったとは思うのですが、この事件から復讐の過程を経てハンニバルは「怪物」として目覚めてしまった。だから、このタイトルではないかと思います。
そのほか、原作では和歌のやり取りなどがあって興味深かったのですがそれらもカットされてしまい残念です。映画を見ただけではなぜ日本に注目したのかがよくわからなかったかもしれません。
ゾンビ、カンフー、ロックンロール みんなだーいすき!食人殺人鬼!「ハンニバル・ライジング」では

皆、ハンニバルの苦悩だとか知ったこっちゃねえんである。だいたい、戦争中に妹を喰われた話は「ハンニバル」原作で書かれていた事だし、改めてもう一度映画化するモチベーションになるのは、頑強な牢の向こうですら危険だとされた初老の男が、若く、自由で、野に放たれている状態が観たい!という事だろう。

とありますが、そういった映画の見方もありかな、と思います。皆かどうかはともかく、そういった映画を見たい層もいることでしょう。脚本を担当したトマス・ハリスも同じような意見なのかもしれない、とこの感想を見て思いました。
レッドドラゴンを観ていない(読んでいない)のでこの先どうなるのかはよく知らないのですが、ハンニバルが逮捕されるとしたら、逮捕されなければできないことがあったからわざと捕まったとか、慢心している刑事をからかいたかったとかの理由があるのではないかと想像します。とりあえずこのシリーズははずれが無いように思えるのでまとまった時間が取れたときにレッドドラゴンを読んでみたいです。