[読了] 関田涙 エルの終わらない夏

 17歳の高校二年生である早河荏瑠は唯一の肉親である母親を亡くし、実業家の叔父に引き取られる。荏瑠は母親に可愛がられずに育ったため引っ込み思案で、あまり表情を変えることが無い。唐突に現れる友人、ウラニアは荏瑠を支えるが、ウラニアが何者なのかはわからない。現在荏瑠が生活している場所で起きた殺人事件は父親が失踪した理由と関係が有るのか・・・。
 あまり感情の変化が無い荏瑠には読者としても感情移入しにくく、少し読みにくい作品でした。他のキャラクタも今ひとつ造形が足りないのか、あまり魅力は感じられません。イラストが魅力的だったのが救いでしょうか。物語は神の視点から語られているのかと思いきや、不意に一人称である”私”と言う表記が散見されます。途中までミステリと思い込んで読んでいたのがよくなかったのかもしれません。以下の文章は石川忠司さん風に書いてみました。人が読んで面白いかどうかは判りませんが、書いていて楽しかったです。また機会があればしてみようかな。
 物語の読み方は自由だ。それは、誰にも束縛されるものではない。しかし、物語の前提を間違えればせっかくの物語も台無しになる。ライトノベルと呼ばれるレーベルはある意味自由だ。魔法が出てこようが、超能力が出てこようが読者にとって驚くべきことではない。それは、そもそも異世界の物語であることが大前提となっているからに他ならない。ライトノベルに限らず、最初にその世界観を示せば物語でどんなことがおきても拒絶反応は無いだろう。たとえば、魔界都市「新宿」では何が起ころうと読者は戸惑うことは無い。”その能力に驚かされることはあっても能力が出たことに驚くことは無い”と言うことだ。むしろ慣れてきた読者ならもっと驚かせて欲しいという欲求を持って読んでいる可能性が高い。また、西澤保彦の作品で、膜状のものに触れると自らのコピーが出来ようが、人格がシャッフルされようが読者は驚かない。それらの設定は物語の比較的初期に語られるからであり、たとえシリィズ物であったとしても初見の読者に対する配慮が感じられる。
 では、この作品はどうか。物語の後半まで現実世界のみが描かれており、不可思議な存在はウラニアぐらいのものだ。そのウラニアにしても、彼女は荏瑠の妄想が生み出した存在ではなく、荏瑠の多重人格の一人でもないとはっきり表記されている。謎は提示され、読者に様々な可能性を考える機会が与えられている。読者は現実に即したトリック、もしくは状況を想像するだろう。が、いきなり時間跳躍とか空間移動とか、超常現象が謎解きの条件だといわれても”なんだそりゃあ”としか読者は感じない。この手の方法は殊能将之の「黒い仏」だけでおなかいっぱいだ。「黒い仏」では最後の最後にアクロバティックな展開を示し、読者を困惑させるとともに苦笑させることに成功している。だがこの作品では思惑が中途半端だ。読者を驚愕させる(呆れさせる)仕掛けが明らかになってからの物語が中途半端に長い。従って、そこまで様々な可能性を考えていた読者は以降の展開を容易に想像することが出来る。そのため、作品の読後感は”卑怯だ”とか”フェアではない”となってしまうのだ。おまけに物語を逆向きに構成した感が否めない。卑怯?フェアじゃない?要するに最高ってことだ、と言わしめる作品を今後出すことが無ければこの作者の作品を読むことは無いだろう。