人間と自然の関わり合いについて、それぞれの専門的な視点から意見する対話形式の作品。それほどたくさん読んだわけではないけれど、養老さんの本は、森博嗣さんの本と同じでだいたい似たような話を違う視点からすることが多い。抽象したものは同じで、そこの認識がしっかりしているから、いろいろな話し方ができるのだろう。読者としては、そういう話し方ができるのか、と楽しめる。同じことを言っているな、と感じる人は、きっと抽象したものを受け止めてしまっているので、文句をいうために読むのでなければこの先の作品は読まないほうが良いかもしれない。
医学における統計の話が出てきて、医者が数値ばかりを見ていて個人を見なくなった、との話があった。血圧やコレステロールなどの数値を集めて安全域を示すことで、安全域からはみ出ているからこれこれこういう対応をしなさい、との診断になっており、実際に血圧が高くなったから何ができなくなったとか、何に困っているのかとかを考えなくなった、という話(このままではない)。それはそれで一理あるのだけれど、それではどうすればいいのか。その患者が望む形を引き出して、それをかなえるための手助けをしろ、というのが答え(の一つ)だと思う。でも、それを医師が担当するのには無理がある。きっと、養老先生たちは、過剰に介入することなく、死が近づいてきたら受け入れればよい、と考えているのだろう。それも確かにそうで、患者が受け入れられるのであればそうするのが良い。でも、これまでの日本の医療の過程を考えると、脳梗塞で動けなくなったからあとは家でゆっくり死にましょう、という考えは受け入れられにくいのではないかと思う。ぴんぴんころり、と死にたいものだと人は言う。その「ころり」は、本来は数日間動けない状態や意識がない状態を含めていたのだと思う。ばたんきゅーと死ぬことは難しい。誰かが助けるからだ。また、そのように死んだように見えても、数時間苦しみ続けて死んだかもしれない。ある一定の年齢以上になれば、手術が必要な処置はしない、と決めてしまうほうが良いのだろうか。老人の肝臓移植に大量の輸血を用いるのを経験し、あの血液があれば他にどれだけの人が助かるのだろう、と思いながら処置をしたと言った人がいる。その時は患者を救うのに懸命だっただろうけど、思い返せばそう感じたようだ。期限内に使い切れずに処分するよりはまし、との意見もあるかもしれないけど、今現在そこまで余裕があるわけではない。老人を見捨てよう、というのではないけれど、80歳とか90歳になっても手術をするのはやめたほうが良いのかもしれない。その年になった時、同じ風に考えられるかどうかはわからないけど。
一方で、子供たちについては、自然と触れ合う機会が減って、物事は自分たちの思い通りにはならないことを知る機会が減った、と言っている。都会に住んでいたわけではないので、今の子供たちよりは自然に触れてきたとは思うものの、虫は苦手だし、くさいのや汚いのも避けたい。ただ、最近になって、少し虫に興味が出てきたので、実際の昆虫とは適度な距離を保ちつつ、楽しんでいこうとおもう。