本はずっと読んでいたのだけど、特にほかのところで感想を書いていることはありません。メモ書き程度の感想は残していたのだけど、自分用のメモならevernoteで十分かな、と最近ブログにはあげていませんでした。アクセス解析はしていませんが、時々見てくれていたのでしょうか。ペースはとても遅いと思いますが、時々感想を書きますので、半年に一度ぐらい見に来ていただけると、少しは更新されているかもしれません。ちょっと書き方を忘れていますね。

  • 福島智 ぼくの命は言葉とともにある: 9歳で失明 18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと

身体能力や体格は貧相なものの、大きな病気をしたことがないし、ほとんど風邪をひくこともなく、恵まれた体であると普段から思っている。皮膚が弱いものの、世間一般と比較しても頑丈な部類だろう。著者の福島智さんは、幼いころに片目を、成長するに従いもう片方の視力を失う。そして、さらに片耳の聴力を失い、成人するまでに聴力を完全に失ってしまう。視覚と聴覚をともに失った人を、盲ろう者と呼び、日本だけでも数百人いるとのことだ。当たり前のように享受している感覚が失われるときの恐怖は、想像を絶するものがある。なぜか、幼いころから四肢を失う夢を見る。片腕であったり、片足であったり、腕と足が片方ずつであったり。それだけ、四肢を失うことに恐怖を感じていたのだと思う。ただ、四肢すべてを失う夢や、視覚、聴覚を失うを見たことはなく、何かに恐れはするものの、自分の想像力がいたるのはその程度であったのだろう。

人は視覚に頼る生き物だという。でも、見えなくても聴覚が残っていたら、それを頼りに活動できる人も多く、普段意識しているかどうかはともかく、聴覚に頼る部分も大きいのだと思う。しかし、それが両方失われた場合、どのような状態になるのか、なんとなく考えることはできたとしても、現実の感覚とは程遠いに違いない。

福島さんは、指点字でコミュニケーションをとるらしい。点字の表を見てみたけど、思いのほか複雑だ。慣れるとそれなりの速度でやり取りできるのだろうか、と動画を探してみた。想像しているよりもかなり早い。だとしても、本を一冊仕上げるためにはどれほどの時間と労力が必要だったかとおもう。そのようにして作られた本だから、噛みしめて読まなければと意識していたのだろうか、一つ一つの言葉を、ゆっくりと読んでいた。

人は、生きているだけで生きる意味の9割は満たしているとの言葉があった。あまり社会に貢献するでもなく、子孫を残すでもなく、ただ生きているだけの自分にどれだけの価値があるのかと考えてみる。いずれ死ぬのだから、死に急ぐことはないと特に自死を考えたこともないのだけど、生きているだけでいいといわれるとかなり気分が楽になる。一方で、コミュニケーションの重要性が説かれているが、最近仕事以外でのコミュニケーションをとることが少なく、SNSすら参加していないので、ある意味世間から離れているかな、と自覚している。あまり密な関係を望まないのは、もともとの性質なのか、これまで親密なコミュニケーションをとる機会がなかったからなのか。体が丈夫なのと、インフラが整備されて一人でも苦労なく生きていけてしまうのが理由の一つではある。

「愛している」の言葉だけで感動することはなく、それまでの人間関係を含めての「愛している」に、ひとは心を動かされるという。映画で感動するというけれど、2時間の映画でどれほどの関係性がわかるのだろう、と疑問に思わないではないが、そういった場合は自分の経験を外挿しているのだろうか。だとすると、映画にあまり感動できないのは、経験が少ないからかもしれない。年を取ると涙もろくなるのも、経験が増えるからだろうか。Lineやツイッタでの短い言葉のやり取りでも、それを積み重ねていくうちにコミュニケーションは深まるのだろうか。たとえばLineでのやり取りで、こちらが何かを伝えた時の反応が、そうなんだ、とか楽しそうだね、だけでは、何も変わらないような気がする。相手と接しないコミュニケーションというのは、ボトルを海に投げるようなもので、相互的なコミュニケーションには遠いような気がしてしまい、いつも続かない。あちらが対して望んでいないのなら、まあいいかと考えてしまう。相手が家族持ちの場合(は多い)、こちらも遠慮してしまうし、向こうはあえて積極的にこちらに連絡をする動機もないし、家族のことを多く考えたいのだろうから、次第に疎遠になっていく。ここでまあ、いいかと考えてしまうのが悪いところなのだと自覚はしているのだけど、改善する方向には進まない。いつか、コミュニケーションを求める日が来るのだろうか。そういった自分を想像するのは難しい。

話題を少し変えると、福島さんが作家と接した時の話が面白い。詳しくは書かないけれど、大御所との対話で、さすがに言葉に関する感性が鋭い、とのことだった。また、作家には伝えたいことがあり、それが伝わったことに感動していた。最近の作家は、面白ければ良いとの考えで書いているのではないかとの印象だけど、それほど伝えたいことってあるのだろうか。何かを作る人というのは、ただ作りたいだけではなく、そういった思いがあるのだろうか。それがある方がよい、と必ずしもいえるわけではないし、表面的なエンタテインメントの方が気楽に読めることもあるけど、時にはそういった、伝えたいものがあるような作品を読むのもいいのかもしれない。

ここまでを書いたのは、先日の大量殺人が起きる前のことだ。この本の感想として、あの事件を外すのも不自然なので、少しだけ感想を足すことにした。いくら自分(犯人)がどう考えたとしても、他人の命の価値を決めることはできない。何かが不自由な人がいて、生きていたいと考え、支えたい、生きていてほしいと思う人がいたら、それを一緒に支えるのが成熟した社会だと思う。誰もが現実に体を動かして彼らを支えることはできないので、税金や寄付など、できる範囲で支えていけばいい。それが社会の負担になっている、と主張する人たちもいるけれど、そうなると、残された人の中でまた、効率が悪い人が切り落とされるだろう。自分は大丈夫、と考える人は、老化しないと考える人なのか、老化しても有象無象よりは優秀であると考える人なのか。冷たいところがあると自覚しているし、淡々としているといわれることもあるけれど、そんな殺伐とした社会は望まない。この事件の後、福島さんがコメントをしていた。本の内容に近い主張で、普段考えていることを声明として出したのだろう。生きようとする力も人それぞれ異なるし、どんな状態であっても生きなければいけないとは思わない。死にたい死にたいと考えながら生きる日々が、生きているだけで素晴らしいのだとされる必要もない。ただ、死にたい気持ちというのは、現状がいつまでも続くのなら、と前提がある場合がほとんどだろうし、瞬間死にたいと思ったから、死にたいと言ったからといって見放す必要はない。また、本人の生きたいという気持ちがあれば、何とかできる社会であってほしい。行動して密なコミュニケーションをとることで他者にかかわりたいとはあまり思わないのだけど、何かしらの形で微力ながらできることをしていこうと思う。それが的外れでないことを願う。