[読了]森博嗣 ヴォイド シェイパ

ヴォイド・シェイパ

ヴォイド・シェイパ

純粋な思考をもつためには、あるていど社会から隔離されなければいけないのだろうか。かかわりを持つことが毒されることならば、そうなのかもしれない。著者の森博嗣さんは、あまり周りから影響を受けない性質のようで、わが道を行くというか、あえて逆を進んだりもしてきたようだ。しかし、新書を読んでもおもうように、周りの目を気にしないことはできても、自分がしたいことのために他をすっぱりと切り捨てることは難しい。それは、そこまでしたくないからであり、常にひとは最適な状況(自分にとって)を選択していると言う。それは、その通りなのだけど、まずしたいことのためにお金をためよう、とおもって自分にできることをよーく考えたとしても、今からだと、できそうなことに関連する身につけて、それからお金をためて、としていたらその間に死んでしまいそう。
主人公のゼンは、山で、武道の達人、カシュウに育てられた青年。街中でひとがすること、考えることについてなぜだろうかと自分でも考えるし、他人に問いかけたりもする。その思考は純粋に思えるけど、知っている知識と知らない知識が変に偏っているような感じがして、どうも素直には読めない。小説ではあるけれど、新書のような読後感。物語自体よりも、伝えようとしている(まあ、本人にそんな意図はないような気がするけれど)内容が前面に来ている作品だった。生きることの意味とか、善悪の価値観など、自分が思っていることが凝り固まった考えなのかもしれない、と考え直すことを提示してくる。上手いことのせられているような感覚になるけれど、それが面白い。
生きていることと、死ぬことのどちらに価値があるのか。もちろん生きているほうだ、と答える人がほとんどだろうけど、作中では「長い生に対して一瞬の死」だが、両者は等価である、といった内容のことを言っている。さて、どうだろう。生きている間はいろいろと変化があるけれど、死んでしまえばそこで停止してしまう。変化があるほうが(個人ではなく全体に)必ずしも良い訳ではないのだろうけど、今現在生きている身としては、生きているほうに価値を感じてしまう。今まで、自殺しない理由は唯一「死んだら元に戻れないから」だ。試してみるわけにもいかない、とは作中でも言っていた。生きていて良かった、と感激するほどの出来事は特にないけれど、死ななくて良かった、とおもう程度の、小さな楽しさはいくつかあった。これから先はあまり楽しいことの期待はできないだろう。だからと言って死にたいわけではないし、楽しいことがあるから生きているわけではない。ときどき、何が楽しくて生きているの、と問いかけてくる人がいる。それほど深い意味で問うている訳ではなくて、何が趣味なの、ぐらいの感覚で質問しているのだろうけど、その質問をする人は嫌いだ。楽しくなければ生きている価値はない、と考えているように聴こえるからだ。
もう一つ、読後に考えさせられたのは、相手のすごさを理解するためには、自分もある程度の域まで達している必要があると言うこと。あんなのたいしたことないよ、と言うひとはたいていその人がたいしたことがない。たまに、ものすごい人で、本当にたいしたことがないとおもっている人もいるので簡単には判断できないけれど。例えばテレビでスーパードクタの特集をしているのを見て、自分でもあれくらいできるんじゃあないの、とおもうかもしれない。実際に、手技的には可能なことも多いだろうけど、経験や知識による判断が積み重なった結果、その手技を行使したことに気がつかないのだろう。または、リカバリ能力の有無も重要だ。もし失敗したとしても、違う術式に変更するのか、輸血などの対応で何とかなるのかを判断できるかできないかの差は大きい。これは想像だけれど、以前、これまで未経験の内視鏡手術を行い、失敗したひとは、自分の実力も知らず、可能か不可能かの判断もできない人たちだったのだろう。逆に、たいしたことでもないのにすごいことのように見せる人もいる。詐欺などはそういった技術を使ったものだ。それを見極めるには有る程度の知識と、考える頭が必要だ。頭がいい必要はそれほどないとおもう。頭がいいひとが頭の悪いひとをだます構図なのだろうけど、ちょっと考えてみたら不自然な点がおおい話は、世の中たくさん転がっている。それを鵜呑みにする前に、一旦考える段階を踏む練習を積めば、相手の姿を無駄に大きくみることはないのではないだろうか。
とまあ、いろいろと考える作品だったのだけど、ずいぶんあっさりした内容だな、とも感じていた。森博嗣さんのHPをみると、これは3部作の1作目のようで、まだ続きがあるらしい。楽しみにしておこう。