米澤穂信 遠まわりする雛

遠まわりする雛

遠まわりする雛

しなくていいことはしない、しなければいけないことはできるだけ手短にを信条とする折木奉太郎ですが、観察力とふとした言動から前後を推理する力はかなりすごい。普段の会話やちょっとした行動をそこまで見ている人がどれくらいいるかというと周りにはほとんどいないのでやはり彼は観察力に関しては秀でたものがあると思います。
日常の謎が主題の作品ですが、内容を話してしまうと面白みがなくなるのでそれは避けるとして、この話はミステリというよりも恋愛小説に近いのかもしれません。もちろん謎解きも話を面白くする要素のひとつであることに疑いはないのですが、それよりも「える」と奉太郎、友人である里志と摩耶花のやり取りが面白く、彼らの距離感が心地よい。残念ながらそれほど彩りのある高校生生活を送ってきたわけではないので気持ちがわかるとはどうしてもいえないのですが、もしこうだったら楽しい高校生活だっただろうなあと思える彼らです。
日常であるのはあるのですが「える」が千反田家という名家の生まれであることがどこにでもある日常から少し離れた世界を垣間見せてくれます。えるが千反田家の生まれでなかったらまずありえない納屋でのできごとや、あるお祭りの話などとても面白い。そして、えるは千反田家に生まれたことで早くからある決意というか覚悟を持ちます。そのことについて奉太郎もまた思うことがあるようで、この巻の終わりでは若干意識の変化が見られました。さよなら妖精のようにごく限られた一時期の思い込みに近いような熱意(それはそれでよかったのですが)ではなく、ちょっと時間をかけて真剣に進路やこれからのことを考えた少年少女の姿をどこまで描写するのか期待。
姉も本格的には登場していないし(もしかしたらこのままかもしれませんが)、もう少し「える」や奉太郎、里志と摩耶花の姿を見たいと思える作品です。シリーズが好きなこともありますが、とても面白かった。難点は、近所の本屋さんにほとんどなかったことです。合計20件は回ったのですが、一件でだけで、しかも新刊のところにはなかったという悲しい話。
少し話からそれるので一応隠しますが、里志が摩耶花を受け入れない理由に若干共感するのでそのあたりを少しだけ。里志は広く浅く物事を楽しむスタンスを取っています。それは専門家になるために深く入り込む楽しみと相反するものではなくて、楽しみ方のひとつとして否定するところではありません。彼自身はかつて誰にもいろんなことで負けたくないと思っていて、それだと実は楽しんでいない自分に気がつき現在の価値観になったようです。個人的には、広く浅くいろんなものを楽しんだ後に自分にとってより楽しめそうなものに深入りしていくのかなと思うのですが、一生広く浅く楽しむ人もいるのかもしれない。繰り返しますが、それはそれで楽しみ方のひとつだと思います。ただ、里志はそれを自分のすべてに適用しようとしていて、まあ、信条ともなればそうなるのかもしれませんが少しもったいない。それが若者らしいといえばそんな気もしますけど。年齢を重ねて少しいい加減になっていて、ある部分は譲れなくてもある部分はまあいいかと考えられるようになった。年をとると頑固になるというけれど、あまりそんな自覚はなくて、そこにいたるまでのひとつの過程かもしれないなんて思っていますが、これから先どうなるでしょうか。
ところで里志に共感できるのは「誰かに夢中になってしまったら今までの自分が変わってしまうかも」と恐れてしまうところかもしれません。一時期だけそんなこともありましたが(思い出し苦笑い)、それがうまくいかなかったという残念な出来事があってからはそれほど個人に執着しなくなりました。それはそれで寂しいことなのかもしれませんが、まあ仕方がない。誰かにすごく思い入れをするということは、例えばアーティストのファンになることでも、ものすごく自分を変えてしまうことなのかもしれない。そこに楽しさを見出すか、恐れを見出すかで行動が変わるのかも。それで、どちらかというと後者なのですがなぜ恐れるかを考えると、相手の影響を直接受けてしまうからかなとか考えます。一人にそこまで影響を受けていいのかとか、中途半端に理性的なもうひとりがどこかにいてそっと警告している。
これからそんなに執着できる人やものに出会えるかどうかはわかりませんが、できるだけ感性を固定しないでいろんなものを見聞きしたいと思います。