白石一文 私という運命について

私という運命について

私という運命について

 2005年の時点で40歳になる冬木亜紀の29歳から40歳までを綴った物語。亜紀が一番若いころで今から11年前ですから、当然、記憶は残っています。その時々の印象的な出来事がちりばめられていて、そのため物語へ入り込みやすかったです。
 物語は亜紀と身近な人々の結婚や死について語られます。亜紀は主要な場面で自分で最適と思える選択をしますが、後々その選択について思い悩みます。「運命」と思えるような出来事は今までに無かったけれど、「選択」を迫られる状況はそれなりにありました。その結果が最適だったのかどうかはわかりません。きっと、もっと時間がたたないとわからないのでしょう。
 祖母が口癖で、「運命は変えられるが宿命は変えられない」と言っていました。確かに、自分の意思で選択しているのだから、ここで言う「私と言う運命」は亜紀が選択して進んできた運命なのかもしれません。でも、ここで亜紀は運命のことを「変えられないもの」として受け取っているような気がしました。自ら選択しているはずなのに。
 バブルを楽しんだ世代ではありませんが、楽しんだ人たちが上にいて、今でもあのときの栄光をもう一度、見たいなことを言っているのを聞くとうんざりします。亜紀は知り合いの若者に対して仕事への心構えのようなことを言います。それは、確かにその通りで、甘い考えで仕事をする人はあまり受け入れられないし、始める前から適当にしよう、とはいただけない考えです。しかし、亜紀自身どうだったのか、と言うと、自分で限界を決めてしまい、中途半端に終わってしまったのではないかと思いました。
 作中、何度か手紙が出てきます。それは、この上なく追い詰められた、もしくは行き詰った末に書かれた手紙で、真剣にかかれたことがわかるので心に響きます。小道具としては少し卑怯だ、と思ったくらいです。それだけ効果的でした。
 ミステリではないので最後どういった展開になるのか想像できませんでした。ミステリなら事件が解決するであろうことは比較的予想できます(たまにあいまいなまま終わる作品もあります。そういった作品にも好きな作品はあります)が、終盤どう展開するのかどきどきしました。この終わり方は、あまり好きではありませんが、現実味があると思います(ある動物の話ではなくて)。
 ここまで書いてから、ダヴィンチのプラチナ本にある感想を見ましたが、バブル時代を堪能した世代は入り込み方が強いような気がします。編集長は感受性の強い人ですね。人の何倍も本を読むであろう人がこれほどひとつの作品に考えを左右されていいものか、と思わないでもないけれど、きっと読了直後の感想であって、その後はすぐに冷徹な視点を持つに違いない、と思いたい。