辻村深月 凍りのくじら 

凍りのくじら (講談社ノベルス)

凍りのくじら (講談社ノベルス)





 写真家の父を持つ芦沢理帆子は病気の母と二人で暮らしている。周囲と上手く行っているようだが、精神的には溶け込めていない理帆子。理帆子は気軽に付き合える友人のことを内心馬鹿にしており、家庭環境のことも適当に誤魔化している。元恋人は司法試験を目指して浪人中だが、実際は勉強もせず、孤高な自分に酔いしれている。そんな理帆子の前に現れた別所あきら。聞き上手な彼との会話によって理帆子は癒えていく。
 自分のことを頭がいいと思い、周囲を馬鹿にする理帆子。この自信がどこから出てくるのか判りませんが、若さゆえの痛々しさがとてもよく描かれていたと思います。理帆子の癖は人を少し・何とかで分類すること。これは、藤子不二雄が「SFとは少し・不思議のことでいいと思います」と発言していた影響を受けたから。他人を分類することは趣味がいいとは思いませんが、これは理帆子が自分を守るためにとっていた行動に思えました。
 理帆子が他人を馬鹿にしている様子は、あまりにも自意識過剰な感じで、とても痛々しいです。過去に似たようなことを思っていた自覚があるからでしょうか。でも、救いなのは理帆子が本当は単純に楽しめる友人のことを羨ましく思っていることを自覚していることでしょうか。
 帯にあるようにドラえもんに登場する数々の道具やそれにまつわる話が語られています。ドラえもんが無造作に道具をのびた君に提供するのは、のびた君の純真さが前提にあるからだ、と登場人物は語ります。子供の頃は無邪気に羨ましいな、と思っていましたが大人になってからは、あれではのびた君をだめにしてしまうだろうな、と思います。それでも、ドラえもんには夢がありました。ドラえもんについて友人と語ったことは結構よくある経験なのではないでしょうか。たとえば、「タケコプタが回転による浮力で飛んでいるのなら首がねじ切れるはずだ」とか「タイムマシンで過去を変えたとしても並行世界がひとつ出来るだけで戻った時に影響はしていないはずだ」とか。夢のない会話ですが、それなりに楽しい記憶です。
 あまり考えずに、と言うか理帆子の痛々しさに引きずられながら読んでいたためラストには少し驚きました。普通気がつくと思うのですが。読者がラストで明かされることにではなく、理帆子がそれまでに、と言う意味です。10代の痛々しさが書けていた点ではいい話だと思いますが、エンタテインメント性は低いかもしれません。読後感は少し・不満。