藤野恵美 初恋料理教室

([ふ]5-1)初恋料理教室 (ポプラ文庫)

([ふ]5-1)初恋料理教室 (ポプラ文庫)

料理教室をきっかけに知り合った人々が、それぞれの世界を少しずつ広げる話。料理はするといえばするのだけど、基本的に煮る、焼くぐらいしかしない。だしもだしパックでしかとらないし、極力調味料は増やしたくない(と言いつつ買ってしまうので数回しか使っていない調味料がたくさんある)。おいしいものを食べたいという欲求が少ないからなのだろう。料理のために時間を割く気になれないのだ。朝は食べない、お弁当はつくらないので晩しか作る機会はない。何を作るかといえば、前の日に肉と野菜を切ってシャトルシェフに入れ、ひと煮立ちして翌日味付けしたスープか、あるものを焼く(焼きそばやチャーハンなど)、パック野菜をいためてうどんやラーメンに入れる、ぐらいか。あまりおいしくないけど、誰かと食べるわけでもなく、栄養重視で食事を済ます。誰かが作ってくれたものならもちろん味わって食べるけれど、こんなに考えて作っているのに、とか、作っている側が苦痛に感じるのなら作らなくてもいいと考えてしまう。ただ飯でも、いいものを食わせてやっているのだ、という意図が感じられることが多くていやだ。とまあ、食にこだわりがないことから書いているけれど、おいしそうなものを見たり、小説で読んだりすることは好きだ。読む分には金銭や労働など、自分や他人の負担がないからだろう。
それなりに長く生きていると、生活していく中で「当たり前」と感じることは、それぞれの経験によりだいぶ違う。生活水準の違いも大きい。人それぞれ当たり前だと思うことや大切なことが違う、と若いうちから理解する人(年を取ってもわからない人もそれなりに多いけど)は豊かな暮らしをしてきた人ではないかとおもう。登場人物の一人は、多くの人が当たり前に享受してきたことを受けられなかったため、知らないことが多い。彼らはそのことを少し恥ずかしがるのだけど、足りないものをがあることを自覚し、素直に質問もできるのですばらしいとおもう。そして、多少皮肉っぽさはあるものの、嘘を教えない、親切に答える周囲の人たちもまたすばらしい。立場が異なるとか、直接の利害関係がないと、人は優しくなれるのかもしれない。今まで習い事の経験はほとんどなく、親戚づきあいもあまりないので、学生時代はほとんど同世代との交流しかなかった。社会人となり、仕事でのかかわりはあるものの、友人といってもいいのか疑問だ。文章として書いてしまうとさみしいようにも思えるけど、あまりさみしくはない。料理は、基礎ができれば楽しくなるかもしれないと感じているものの一つで、なにかの拍子に少し真面目に、と始めるのだけど、半年ぐらいで飽きてしまう。レパートリィが増えないし、手間と味が今一つ比例しないからだ。料理教室というのは、基礎を学ぶ点でいいかもしれない。YouTubeに調理の動画はあるだろう。レシピはそこかしこにある。でも、それを見てすんなりできるようになるためには基礎が必要で、実際の手際を見なくてもできる人はいるのだろうけど、できない側の人間なので、基礎を学べるものなら学びたい。しかし、真剣に調べたわけではないけれど、習い事が豊富なのは都会で、田舎にはあまり習い事をする場がない。どこか伝手が必要なのかもしれない。それほどまでに求めているか、と自問すると、そうでもない。何をするにしても、強い動機が近年失われているのを感じる。自分がしたいことは何なのか、と考えても、のんびりと本を読んで過ごせたらいい、ぐらいの欲望しかない。正直、これはもうかなっているし、もしこの先収入が激減したとしても、青空文庫でも(タブレットがあるので)時間は過ごせそうな気がする。話がそれた。おいしいものを強くは求めないけど、おいしいものを食べたら少し幸せな気分になる。できれば、気が置けないひとと食べたい。
世の中、意外とつながろうと思えばつながれるのかもしれない。つながりを美化した話は、嫌いではないけど、読後に自分のことを考えると少し滅入る。気が滅入るのになぜ嫌いではないのだろうと考えると、読んでいる間は自分のことをさておいて、少し幸せな気分になるからだろう。読んでいなくても、一人の自分を考えると滅入るのだから、読んでいる間にいい気分になれる作品が好きなのかもしれない。読んでいて、誰かほかの作家と似ているなと感じていたのだけど、それはまだ思い出せない。気に入ったので著者の他の作品も探して読もう、という感じではないけど、おもしろかった。

 知念実希人 天久鷹央の推理カルテ

天久鷹央の推理カルテ(新潮文庫)

天久鷹央の推理カルテ(新潮文庫)

天才には、処理が早いものと発想が優れているものがいる。小説など創作では前者について書きやすい。それは、著者が時間をかけて考えたことでも一瞬で考えたようにできるからだ。発想に関しては、天才だと表現されていても二番煎じのように感じることも多い。まったくの新しい発想は、SFに近いものがあり、我々凡人には即座に理解できないからだ。天久鷹央は27歳の診断医で、膨大な知識を所有し、検査結果を見るだけで適切な診断をする。どこかで読んだことがあるような作品だけど、具体的になにかあるのか、と言われると思い浮かばないので意外となかったジャンルなのかもしれない。病気は病名が明らかになることで治療が一気に進む。おそらく原因はわからないけど、症状のみがあるということも多いはず。めったにない病気だと、そう診断されたとしても、事実がわかるのは先になる可能性もある。本作品は、極端に希少な疾患はあまり出てきていない。素人目にもこれはないだろう、というものがないので、バランス感覚が優れているのだとおもう。診断の一例を小説風に示した、と言われたらそうかな、とおもうだろうし、覚えていたら、似た症状に出会ったときにこんな可能性があるかも、と思いだすかもしれない。膨大な知識に裏付けされる診断のすごさは、おそらく多くの人に伝わらない。その人に診断されなければいつまでたっても治療が始まらないのだから、その重要性はかなりのものだと思うのだけど、あっさり診断してもらった場合、価値がわかりづらい。今後は、検査結果だけでなく行動や症状を観察することもできるようになり、AIが初期診断を担うようになるだろうから、診断能力のすごさが特殊技能となる最後(の方)の作品となるかもしれない。
5冊目(とスピンオフ2冊)まで読んだ限りでは、天久鷹央は、魅力的な女性というよりも子供のまま大きくなった女性だ。他人の気持ちを慮ることができない、とあるが、実際には、想像はできるけど(自分ならなんとも思わないので)つい配慮しない、とか、共感することが少ない、という話だろう。厳密な意味で他人の気持ちがわかる人はいないけど、他人のつらさやうれしさを想像して、自分だったらこうしてほしいと思うことをすることが、社会を成立させている(様な気がする)ので、同じような傾向を持つ人は、天久鷹央のように卓越した能力がないと生きづらいだろう。主人公の美醜については触れていないような気がするけど、イラストはかわいらしい女性だし、姉は美しいと評されているので、きっと本人もかわいらしいのだろう。美醜は措いておくとして、中学生に見間違える27歳というのは実在するのだろうか。もちろん間違える人はいるのだろうけど、大勢の主観としてそう感じるような見た目の女性が存在するのだろうか(外国人から見た外見ではなく)。高校生に見える30歳はいるかもしれない。化粧をしなかったら基本的には幼く見えるからだ。知り合いにも、長い間高校生のようにみられていた人がいるけど、さすがに中学生には見えなかった。今は、あまり子供を見ることがないのでわからない部分はあるけど、それにしても27歳を中学生とみることはないのでは、とおもう。なぜ長々とこういったことを書いたかというと、若くして有能であるならば、特に見た目は20代前半でも後半でも構わないとおもうのだけど、なぜ子供に見まがう外見に設定したのだろうか、と疑問を感じたからだ。子供に命令される大人、との状況にしたかったのだろうか。年相応に見えれば、ただ単に礼儀を身に着けていない大人だとみなされるからだろうか。天久鷹央は幼く見えることから、年長者に侮られることが多い。優れた若者に対して、我々はきちんと礼儀を示すことができているだろうかと考えてしまう。明らかに今の自分より優れているのに、足りない部分を探して優れた部分を打ち消そうとはしていないだろうか。若くてすぐれた子は、今の職場にも時々やってくる。それなりにきちんと接しているつもりではあるけれど、これは同じ大人として対応しているからだ。中学生が見学に来て、的確な意見を言ったとして、まだ社会のことがよくわかっていないんだね、といった対応をしないで真摯に受け止められるだろうか。鷹央を侮る悪役の言動は、もしかしたらあり得る自分の姿かもしれない。と、常にそんなことを考えながら読んでいるわけではないけれど、読み終わるごとに少し振り返ってそう思う。
物語を閉じるつもりがあるのかないのかはわからないけど、最終話は「天久鷹央最後の事件」を解決し、数年後の描写があって終わり、となりそうなイメージがある。ただ、まだ強大な敵が出てきていないので、最後の事件がどんなふうになるかは予想できない。強大な敵は、未知なる疾患の様な気もする。その疾患はTakao’s syndromeと名付けられた、終わり、というのもあるかもしれない。

 宇宙はもつれでできている/鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。/カラスの教科書

  • 宇宙はもつれでできている

ブルーバックスの感想は書いたことがあったかな。知らない分野についてはそれなりにまとまっているものが多いけど、ときどき難しいものがあって、気軽に手を出したものの途中で読まなくなってしまうものもそこそこある。最近ラズベリーパイに興味があるのだけど、プログラム関係は苦手なのでまだ手は出していない。ここに書いても、あまり自分に向けた圧にはならないのだけど、多少背中を押す理由になるかもしれないので書いておく。
科学が進歩する歴史は面白い。誰であれ、自分で終了することはないことを知っていて、それでもなお、ぎりぎりまで解明しようとする姿勢が好きだ。偶然が解決することもあるし、まったく見当違いのことだってよくある話だ。失敗があるからこそ成功につながることもよくあるし、(本当はあっているはずなのに実験の手順ミスなどで)失敗したことで進歩が遅れることもあるだろう。当事者にとっては人生がかかっているので笑い事ではないのだけど、そういったことすべてを後から見てみるととても面白い。
この本は、量子力学が議論によって進歩する過程を、見てきたように描いている。本当にこういった会話があったかどうかはわからない。人の記憶はあいまいなものだけど、かなり優れた人たちなので、覚えていないとも言い難い。書簡のやり取りなどで、だいたいこういった会話であったのだろう、と推測している部分も多そうだ。物語としてみるので、会話の正確さはさほどの問題ではなく、面白いかどうか、話がきちんとつながっているかの方が気になる点だけど、その点は問題ない。アインシュタインをはじめ、そうそうたる面々が登場する。もちろん知らない人も多いけど、知っている名前が出てくるとちょっと興奮する。人物像が描かれることも多く、親しみを持ってしまう登場人物もいたし、そうでない人もいる。昔は、能力があって、それを示すことができれば多少生活態度に問題があってもスルーされていたのだなあ、と感じる。今でも、お金持ちとかが羽目を外すことがあるのかもしれないけど、比較的たたかれることが多く、才能の有無が分かりにくいので減ってきたのかもしれない。
新たな段階に進むため、これまでにない発想をしてきた人たちのことが描かれているのだけど、これからもそういうことはあるのだろうか。あるにはあるだろうけど、生きている間にどれくらい見ることができるだろうか。新しいことをどれくらい理解できるだろうか。この先脳は劣化する一方だけれど、いろいろと知りたいし、理解したい。

  • 川上和人 鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。

鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。

鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。

こんなタイトルではあるけれど、やはり調査対象のことは好きなのではないかと思う一方で、興味があるのと好きであることは違うような気もする。ルパンやドラえもんが好きなのだ、ということはよく伝わってくる。鳥はそれほど好きでも嫌いでもないのだけれど、大嫌いな人間がバードウォッチャーなので、話題には出さないし、積極的に興味を持てなかった。でも、カラスの専門家である○○さんの本を見ると面白いし、この本も面白い。語り口調で、するする読めるのだけど、実際の情報量としては少ない。ブルーバックスなどと比較してはいけない。もちろんだからダメというわけではなくて、鳥に興味を持つようになったし、導入としてはとても良いのではないかと思う。最後の方に書かれてあることで、その気持ちはわからないでもないけど、それはもうちょっとしっかりしようよ、と苦労もわからないくせに言いたくなった。いや、本当に、気持ちはよくわかるので強くは言えないのだけど(言っても仕方がないし)、自戒を込めて、書いておくことにした。

  • 松原始 カラスの教科書

カラスの教科書 (講談社文庫)

カラスの教科書 (講談社文庫)

カラスがゴミをあさっている姿はよく見るし、田んぼや芝生の周り、樹上などいろんなところでも見かけることが多い。賢さがTVで喧伝されていることもあり、鳥の中でも頭がいいのだろう、とのイメージを持っていた。この本を読むと、想像していたことと違うこともあったし、想像していた通りのこともあった。カラスの行動が面白いことに加え、著者のアテレコがとても面白い。擬人化しすぎな部分は否めないけれど、そうだと思って普段その辺にいるカラスを見るととても面白い。田舎に住んでいるので比較的野鳥は多いけど、カラスは雀や鳶よりも人間っぽいところが多く、面白い。
時々車に轢かれているのを見るけど、あれはたぶん車側がよけるに違いないと高をくくってしまったのだろう。車側はおそらく、カラスがよけるに違いないと思ったのではないだろうか。カラスについては、生活範囲の周辺ではさほどうるさいわけでもないし、ごみの害もそんなにひどいことをされた経験はないので(ちょっと袋を破って散らかしていたぐらい)、特に嫌いではない。冬目景の漫画で登場していたことがあり、ペットにしたいくらいだった。ただ、生き物を飼うのはきっと不向きなので、法的に良くても買うことはなかったと思う。
生きていくための衣食住が確保できているのなら、こういった行動観察系の研究はとても面白いだろう。逆に言えば、この研究でお金を集めることは難しいのだろう。そういった人たちの活躍によって、いろんな動物の映像が見られたり、知識を得ることができる。お金持ちの人がいたら、ぜひ支援してほしいものだ。
自転車に乗ったときの散歩道で、川沿いの欄干にカラスがぎっしりと並んでいるところがある。ぎっしりと言っても、2-30メートルに40羽ぐらいかな。なかなかの景色だ。近づくと飛んでいくけれど、通過したら戻る。休憩しているのだろうか。それとも、そこには餌が十分あるのだろうか。明るい時間帯しか通らないけれど、数の多寡はあれど必ずいる。通過するたびに、何をしているのだろうと気になっていた。この本を読むときに、もしかしたら何か理由がわかるかもしれない、と少し期待があった。でも、よくわからないままだ。近くを通っても逃げない個体もいて、すれ違いざまによく観察すると、つぶらな目がかわいらしい。特に巣がなければ襲ってくることもないようなので、これからはもう少しゆっくり通過して、観察してもいいかもしれない。

レッドデータガール 萩原規子

完結したらまとめて読もう、と発売しているのを見たらすぐに買っていたものの、結局積読になっていた。アニメ化もされていたな、と表紙を見て思い出しつつ、まとめて読んだ。子供が成長するような作品は、少しずつ間隔をあけて読んだ方がいいかも、という自分と、まとめて読んだ方が細部を忘れなくていいかも、という自分がいる。いつも、実際にした方の反対を、少しだけ考えてしまう。
作品はというと、田舎で大事に育てられていた少女は、何も知らずに育ってきたが、放っておかれたわけではなく、あえてそのように育てられていた。その理由は、少女が大きな力を継ぐ者として重要な存在だったからだ、という話。幼馴染、ライバル、仲間、敵、偉大な先達と熱くなる要素は多いのだけど、主人公がぼんやりしているのでそこまで燃えるわけではない。何も知らない、知ろうとしない、知らないことについて疑問を持たない、本当の箱入り娘が、外に出ることで、それらの欠損を埋めていく。物語ではあるけれど、若いうちは多少の出遅れがあったとしても一気に取り戻すことができるのだろう、と、若いエネルギィがすこしうらやましくなる。かといって若い時代に戻りたいわけではなく、せっかくこれまで身に着けたものを失いたくなかったり、もう失敗はこりごりだ、と思ったりするので、今は今で足りているのだ。全般として感じるのは、見えなかったものは見ようとしないからだ、との思いだ(違うかもしれないけど、作者が伝えようとしているものと、作者が伝えようとしていると読者が感じるものは必ずしも一致しないだろうし、そう受け止めたという話)。現実社会でも、見ようとしなかったものは見えないし、見ようとしたとたんにいろいろと情報が入ってくることがある。普段生活していると、ぼんやりしていることもそれなりに多いけど、いろいろとみていることも多い。後から、ああ、○○していたね、というと、そんなところ見ていたのかと驚かれることが時々あるけど、そんなにぼんやりしているように見えるのかとこちらが驚いてしまう。もともと切れ者っぽい見た目ではないから余計そうなのかもしれない。日常生活では、周りを見ていた方が、危険を避けられることも多いとおもう。と書いてはみたものの、これは肉眼的な話で、物語の感想として書いたのは、将来への志向とか、他者の感情とかのことだ。相手の感情を想像しない人とは、一緒にいると疲れてしまう。相手の気持ちを考えていないように見えても、あえてそうしている人と、何も考えていない人はわかってしまう(短期間ではわからないけど)。ちゃんと、人の気持ちを想像できているだろうか、と本質的には他人の気持ちがわからないタイプなので、結構考えてしまう。文庫にして全6巻と、さほど分量がある話ではないけど、泉水子の成長を追っていけるこの作品は、読後感が清々しい作品だった。

[読了]恩田陸 蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

ピアノコンクールを舞台に、音楽とは何か、才能とは何かを考えるきっかけが提示されている(著者が提示しているつもりかどうかはわからない)。将棋とか音楽とか、よくわからないけどすごい(のであろう)人がいる世界にはあこがれがある。何においても突出した能力はないので、一つのことでも優れたものを持つ人がまぶしい。身体能力に多くを依存するもの、100m走や格闘技など、については、加齢に伴う能力の低下は避けられないけれど、音楽や将棋は脳に依存する部分が大きく、かなり高齢まで超一流でいるひとが存在する。若い才能はもちろん素晴らしいのだけど、それを老齢まで維持できることのすごさ、素晴らしさに打ちひしがれるというか、感動してしまう。と、こんなにも素晴らしさを説くほど興味があるのに、将棋の駒の動かし方すら覚えておらず、クラシックの曲もほとんど覚えていないという体たらくで、本当に好きなのかと問われると、好きなことに間違いはないが、能力が付いてこないのだと言い訳をしたくなる。まあ、こういう話はする相手がいないので問われることはないのだけど。
受動的な趣味として、本を読んだり音楽を聴いたりすることは好きなのだけど、自分で書こうと思ったり演奏しようと思うことはない。初めからあきらめている部分があり、創作方面に能力がないとおもっている。労働から解放されたヒトは、何かを創造する方向に進むのだろうけど、ただ受けるだけの方が好きだという人もそれなりにいるだろう。そんな場合、何かを作り出せない人との間に格差が生まれてしまったりするのだろうか。
ディストピアを想像するのは措いておくとして、本編に関連した話をしよう。この物語では、天然の天才、かつて神童と呼ばれた天才、王道に近い道を進み、多くの楽器を弾きこなせる天才、天然の天才を見出した天才など、多くの才人が登場する。それぞれの背景も描かれており、だれに感情移入するかは、その読者によって異なるだろう(多くの背景を描かれている登場人物への感情移入が多いのではないかと想像する)。実際誰に感情移入するかというと、実は誰にもしなかった。天才の葛藤といわれても、凡人のレベルまで落として共感するのは違う気がするし、天才にはこんな世界が見えていて、こんなことで思い悩むのか、と想像するばかりだ。将棋と並べて書いたのでふと思ったのは、AIが曲を作れるだろうかということだ。今はさほど挑戦している人がいないのか、あまりニュースとして聴くことはない。クラシックだと、現存する曲数に限りがあるので、それらをすべて学習させて、こういったテーマで曲を作れ、と指令したら曲ができる時代が来るかもしれない。
話がずれていってしまうけど、eufoniusの作曲家が批判されていたころ、実際に楽器を持って演奏していないので、楽器では弾けない曲だとの指摘を見た記憶がある。それは悪いことなのだろうか。デジタルで作曲することができる時代、実際には指が届かないような押さえ方になってしまうとか、そのような指の動きは不可能だ、という曲があること自体は批判されるポイントではない気がする。実際には、一人でできなければ数に頼めばよいのであって、弾けない曲というのはないはずだから、音の連続性というか、つながりに支障がある(違和感がある)のかもしれない。素人としてはeufoniusの曲に違和感があるわけではないので良くわからない。
物語の中で、同じピアノなのに音が違うとか、音を響かせることができるのは才能だ、などの表現がある。以前、演奏者の癖を記録してそのまま演奏できるピアノを見たのだけど、それで演奏するのと、本人が演奏するのでは音がきっと違うのだろう。音楽の中の不思議現象の一つだ。さっぱりわからない。おそらくセンスがないのだ。クラシックも、少し聞いては見たものの聴き疲れするのであまり長続きしない。真剣に聞くための耳が出来上がっていないのかもしれない。はやりのハイレゾ音源も聴いてみたのだけど、ひどく疲れる。真正面を向いていたらそうでもないのだけど、スピーカーに片耳を向けるとそちら側の耳が熱くなって、疲れてしまう。いいものを受け付けない、貧しい感性だと認めるのは若干しゃくな話だけど、これまでの経験上、認めざるを得ない。
誰かと競い合うほどのものは持っていないので、コンクールやその他勝ち抜き戦のようなものとは縁のない人生で、当然舞台裏などはテレビで見たり話で聞くことでしか知らない。本作でとても印象に残ったのは、舞台裏のマネージャにも焦点を当てていたところだ。現実にもこういう人がいるのかどうかはわからないけど、評判のいいマネージャが存在するのかと感心した。あまり普段は光が当たらないかもしれないけど、大切な仕事の一つだ。そういった仕事がTV紹介されていると、見てしまう。球場の芝生を管理する人や、楽器の調整をする人、治具を作る人、刃物を研ぐ人、光電管を作る人(少し違うか)など、目立たないけど大切な仕事をしている人の話はおもしろい。ただ、物を作ったり調整する人はある意味わかりやすいけど、TVでこのマネージャの仕事を紹介されると嘘くささを感じてしまうかもしれない。途中で第三者の視点が入ることで、一気に真実味が薄れるものがある。絶妙な介入で子供同士で諍いが起きることを避けている先生などがいるかもしれないけど、そういった人のすごさは伝わらないし、誰かが伝えたとしても理解されにくい。素人目にはいなくてもいいのではないか、という仕事は、小説の中で描くのも難しいとおもうのだけど、本作では、うまく表現できていた。少なくとも、すんなりと受け入れることができた。知らない世界(知っている方が圧倒的に少ないけど)を描いた小説は好きだ。恩田陸の作品は、ある時期まで全部読んでいたのだけど、ホラーの割合が多い時期があって、それがさほど好みではなかったので、時々読む程度になっていた。今回久しぶりに読んだけど、とても面白かった。直木賞を獲るのも納得の作品。

[冲方丁]十二人の死にたい子供たち。

十二人の死にたい子どもたち

十二人の死にたい子どもたち

闇サイトに集まった、それぞれ死にたい理由がある12人の子供たちが、経営者の入れ替わりに備えて火度払いされている病院に集まり、集団自殺を試みるが、という話。このくらいの話はたぶんネタバレにはならないだろう。子供たちは、今見えている世界が自分たちのすべてだ。本当は逃げてしまっても構わないし、そのしきたり(成文化されていないもの。社会のルールとは書かない)に沿う必要はない。最近は大人もそうかもしれないけど、死を選ぶ前に、情報を得たり解析したりすることができるはずだ。子供が死を選ぶ理由として、いじめられること、不治の病であること、将来に期待が持てないこと、親を含む身近な大人の理解が得られないこと、周りとの環境の違いなどが考えられる。この中に、本作で該当する者もあればしないものもある。老若男女にかかわらず、死にたいという気持ちは一時的に突出するものの、時間をおけば収まるものが多いのではないかと思う。個人的な感覚としては、死にたいと思ったのならそのための行動をとるのではないか、と考えてしまうのでいわゆる「死にたい」は、「死にたいくらいつらい」とか「死んだ方が楽だと思えるくらいつらい」状況なのだろう。ただ、その気持ちがずっと続く状況である場合、安楽死できる手段があれば手を伸ばしてしまうのかもしれない。一昔前、集団自殺を募るサイトがそこかしこにあり、実際に行動した人たちもいた。ニュースにならないだけで、最近もいるのだろうか。大規模で行うと報道され、注目されてしまうので、小規模で行っているのかもしれない。
本作ではいろんな理由で死にたくなった子供たちが登場する。大人から見れば、第三者から見れば些細な出来事かもしれないけど、言葉にすればその一瞬に思えることでも、それがずっと続くのならそれは確かに苦痛であり、死に至る理由なのだろう。ただ、知識があれば誤解せずに済んだこともあるだろうし、素直になれば諍いの原因を取り除けることもあるだろう。だからこそ、知識を得る必要があるし、それらにアクセスする技術も必要だとおもう。最近、検索で上位に来ることのみを目的とした医療情報サイトが注目された。コピー・ペーストを推奨し、内容よりも検索で上位に来るための言葉や構成になるよう指導していたようだ。ある程度知っている人が見ればあり得ない内容だとわかるのだろうけど、知識の少ない子供が検索して、上位に来ていたらこれが有用なサイトなのだと捉えてもおかしくない。深刻な内容について調べている場合、情報リテラシーがあれば多方面から調べるだろうけど、そうでなければ一つ二つ見て理解した気になってしまう。そのサイトを見て未来への希望を失う子がいたかもしれない。今後もある程度いたちごっこは続くだろう。今回の医療関連のように、重要なことについては、政府から発信してもらってもいいのような気もする。これだけウェブが発達したのだから、それ専門の部署があってもおかしくない。
本作はミステリといえるのかな?いろいろと状況が提示されているのだけど、例えばAからBに移動するときにCが使えない、と言われてもそれ以外の経路があるのかないのかよくわからないまま読み進めたので(明確に書いてあったかもしれないけど視点が変わるので登場人物がそう思い込んでいると理解して読み進めたかもしれない)、あまりミステリとして読んではいなくて、死にたい理由にどれくらい現実味があるだろうか、と考えながら読んでいた。ミステリの展開としてはこんなものだろうけど、若干不満な点はある。あるけど、途中からそこは解消されないだろうと判断したこともあって、ミステリとしては読まなかった。作法としては間違っていない(たぶん)。冲方丁の現代ものはあまりないのだろうか。知らずに読んだらだれが書いたのかわからなかっただろう。何かを考えるきっかけにはいいけど、冲方丁の新作として期待すると肩透かしを食らうかもしれない。

本はずっと読んでいたのだけど、特にほかのところで感想を書いていることはありません。メモ書き程度の感想は残していたのだけど、自分用のメモならevernoteで十分かな、と最近ブログにはあげていませんでした。アクセス解析はしていませんが、時々見てくれていたのでしょうか。ペースはとても遅いと思いますが、時々感想を書きますので、半年に一度ぐらい見に来ていただけると、少しは更新されているかもしれません。ちょっと書き方を忘れていますね。

  • 福島智 ぼくの命は言葉とともにある: 9歳で失明 18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと

身体能力や体格は貧相なものの、大きな病気をしたことがないし、ほとんど風邪をひくこともなく、恵まれた体であると普段から思っている。皮膚が弱いものの、世間一般と比較しても頑丈な部類だろう。著者の福島智さんは、幼いころに片目を、成長するに従いもう片方の視力を失う。そして、さらに片耳の聴力を失い、成人するまでに聴力を完全に失ってしまう。視覚と聴覚をともに失った人を、盲ろう者と呼び、日本だけでも数百人いるとのことだ。当たり前のように享受している感覚が失われるときの恐怖は、想像を絶するものがある。なぜか、幼いころから四肢を失う夢を見る。片腕であったり、片足であったり、腕と足が片方ずつであったり。それだけ、四肢を失うことに恐怖を感じていたのだと思う。ただ、四肢すべてを失う夢や、視覚、聴覚を失うを見たことはなく、何かに恐れはするものの、自分の想像力がいたるのはその程度であったのだろう。

人は視覚に頼る生き物だという。でも、見えなくても聴覚が残っていたら、それを頼りに活動できる人も多く、普段意識しているかどうかはともかく、聴覚に頼る部分も大きいのだと思う。しかし、それが両方失われた場合、どのような状態になるのか、なんとなく考えることはできたとしても、現実の感覚とは程遠いに違いない。

福島さんは、指点字でコミュニケーションをとるらしい。点字の表を見てみたけど、思いのほか複雑だ。慣れるとそれなりの速度でやり取りできるのだろうか、と動画を探してみた。想像しているよりもかなり早い。だとしても、本を一冊仕上げるためにはどれほどの時間と労力が必要だったかとおもう。そのようにして作られた本だから、噛みしめて読まなければと意識していたのだろうか、一つ一つの言葉を、ゆっくりと読んでいた。

人は、生きているだけで生きる意味の9割は満たしているとの言葉があった。あまり社会に貢献するでもなく、子孫を残すでもなく、ただ生きているだけの自分にどれだけの価値があるのかと考えてみる。いずれ死ぬのだから、死に急ぐことはないと特に自死を考えたこともないのだけど、生きているだけでいいといわれるとかなり気分が楽になる。一方で、コミュニケーションの重要性が説かれているが、最近仕事以外でのコミュニケーションをとることが少なく、SNSすら参加していないので、ある意味世間から離れているかな、と自覚している。あまり密な関係を望まないのは、もともとの性質なのか、これまで親密なコミュニケーションをとる機会がなかったからなのか。体が丈夫なのと、インフラが整備されて一人でも苦労なく生きていけてしまうのが理由の一つではある。

「愛している」の言葉だけで感動することはなく、それまでの人間関係を含めての「愛している」に、ひとは心を動かされるという。映画で感動するというけれど、2時間の映画でどれほどの関係性がわかるのだろう、と疑問に思わないではないが、そういった場合は自分の経験を外挿しているのだろうか。だとすると、映画にあまり感動できないのは、経験が少ないからかもしれない。年を取ると涙もろくなるのも、経験が増えるからだろうか。Lineやツイッタでの短い言葉のやり取りでも、それを積み重ねていくうちにコミュニケーションは深まるのだろうか。たとえばLineでのやり取りで、こちらが何かを伝えた時の反応が、そうなんだ、とか楽しそうだね、だけでは、何も変わらないような気がする。相手と接しないコミュニケーションというのは、ボトルを海に投げるようなもので、相互的なコミュニケーションには遠いような気がしてしまい、いつも続かない。あちらが対して望んでいないのなら、まあいいかと考えてしまう。相手が家族持ちの場合(は多い)、こちらも遠慮してしまうし、向こうはあえて積極的にこちらに連絡をする動機もないし、家族のことを多く考えたいのだろうから、次第に疎遠になっていく。ここでまあ、いいかと考えてしまうのが悪いところなのだと自覚はしているのだけど、改善する方向には進まない。いつか、コミュニケーションを求める日が来るのだろうか。そういった自分を想像するのは難しい。

話題を少し変えると、福島さんが作家と接した時の話が面白い。詳しくは書かないけれど、大御所との対話で、さすがに言葉に関する感性が鋭い、とのことだった。また、作家には伝えたいことがあり、それが伝わったことに感動していた。最近の作家は、面白ければ良いとの考えで書いているのではないかとの印象だけど、それほど伝えたいことってあるのだろうか。何かを作る人というのは、ただ作りたいだけではなく、そういった思いがあるのだろうか。それがある方がよい、と必ずしもいえるわけではないし、表面的なエンタテインメントの方が気楽に読めることもあるけど、時にはそういった、伝えたいものがあるような作品を読むのもいいのかもしれない。

ここまでを書いたのは、先日の大量殺人が起きる前のことだ。この本の感想として、あの事件を外すのも不自然なので、少しだけ感想を足すことにした。いくら自分(犯人)がどう考えたとしても、他人の命の価値を決めることはできない。何かが不自由な人がいて、生きていたいと考え、支えたい、生きていてほしいと思う人がいたら、それを一緒に支えるのが成熟した社会だと思う。誰もが現実に体を動かして彼らを支えることはできないので、税金や寄付など、できる範囲で支えていけばいい。それが社会の負担になっている、と主張する人たちもいるけれど、そうなると、残された人の中でまた、効率が悪い人が切り落とされるだろう。自分は大丈夫、と考える人は、老化しないと考える人なのか、老化しても有象無象よりは優秀であると考える人なのか。冷たいところがあると自覚しているし、淡々としているといわれることもあるけれど、そんな殺伐とした社会は望まない。この事件の後、福島さんがコメントをしていた。本の内容に近い主張で、普段考えていることを声明として出したのだろう。生きようとする力も人それぞれ異なるし、どんな状態であっても生きなければいけないとは思わない。死にたい死にたいと考えながら生きる日々が、生きているだけで素晴らしいのだとされる必要もない。ただ、死にたい気持ちというのは、現状がいつまでも続くのなら、と前提がある場合がほとんどだろうし、瞬間死にたいと思ったから、死にたいと言ったからといって見放す必要はない。また、本人の生きたいという気持ちがあれば、何とかできる社会であってほしい。行動して密なコミュニケーションをとることで他者にかかわりたいとはあまり思わないのだけど、何かしらの形で微力ながらできることをしていこうと思う。それが的外れでないことを願う。